<2>
すう、「───お待たせ」
かちゃん、と小さな音を立て、テーブルの上にティーセットが置かれる。
「サンキュ」
白地に金の縁取りと、淡い水色で装飾が施されたカップとソーサーは、アルフォンスが成人の儀式を迎えたお祝いに、エドワードが幼馴染み達と一緒に選んでくれたもの。
温かな湯気の立つカップからは、ふわりと柔らかな香りが広がる。
「へえ、良い匂いだな」
「でしょ?この間、左宰相殿が持ってきてくれたんだ」
「ラングが?」
「うん。…ほら、左宰相殿の奥方が紅茶好きだって話、兄さんも聞いたことがあるでしょう?色んな国の茶葉を購入してたのが高じて、お店を始めたって」
「あー、紅茶好きってのは知ってる。…すげぇな、店まで始めたのか」
貴族のご婦人はただ黙って着飾っていれば良いという古い考え方をよしとせず、平民の出身であるラングの奥方はなかなかに行動的な女性だ。
侯爵夫人らしからぬ行動に批判的な者も多かったが、今ではご婦人達の憧れの的となっている。
「その奥方がね、一度飲んですぐに気に入ったんだって。花茶も良いけど、これも是非飲んでみてくださいって、ひと缶譲ってくれたんだ」
「そっか」
アルフォンスが隣に腰を下ろしたところで、エドワードはカップを手にした。
水色はレモンティーより少し濃い、オレンジに近い琥珀色。
ふう、と一度息を吹きかけ、口許に運ぶ。
「…お?」
香りと共にまろやかな味と甘みが広がり、後味はすっきりとしている。
漂う香りも存外控えめで、渋味や酸味が殆どない。
「おー…美味いな、これ」
「ね、いいでしょ?」
ふんわり笑って、アルフォンスもカップを手にする。
「なんか、全然渋くねぇのな」
「そうなんだ。先に一度飲んでみたんだけど、冷めても後味が変わらないんだよ」
「へえ、そりゃすげぇ」
どんな種類の紅茶でも、大抵は冷めれば独特の渋味や酸味が出てくるものだが、この紅茶にはそれがまるでないのだ。
因みに花茶の場合、冷めてしまうとせっかくの香りが飛んでしまい、酸味が増してくるため、アイスティーで作るのは難しく、基本的にはホットで飲まれる。
作るなら、ちょっとしたコツが必要なんだよ───とは、アイスの花茶も難なく淹れてしまうアルフォンスの言。
「この茶葉、売ってんのか?」
「ううん、品種改良を重ねて完成させたばかりだから、まだ市場には出回ってないんだって。扱ってもらえないかって、茶園から持ち込まれたらしいよ」
「…その茶園、良い判断したな」
「ボクもそう思う。奥方ならきっと、良い販売ルートが作れると思うよ」
種類も多く良い品物を扱っていると評判も良いようで、城下のラングの屋敷の近くに構えられた店舗は、客足が途絶えることがないそうだ。
客層はまだ貴族や裕福な商人など、上流階級の人間が中心だが、いずれは民間にも手を広げていきたいと考えているらしい。
「そうそう。奥方のお店はね、カフェも兼ねてるんだって」
「カフェ?…そっか、実家が菓子職人だもんな」
「うん。ね、今度城下の視察ってことで、二人で一緒に行ってみようよ」
小首を傾げて誘われて、エドワードは黄金色の瞳を瞬かせた。
にっこり微笑んで言われたそれは、どう考えても”視察”が目的ではないだろう。
そういえば最近は、公務以外でろくに城下にも出ていない。
「…ん、都合付けられるようにする」
こんな時にアルフォンスが言う”城下の視察”とは、仕事というよりはただの散歩のようなもので。
二人で、と限定されれば、それはつまりデートのお誘いということになる。
「じゃあ決定だ。兄さんの予定が決まったら教えてね」
「ところで兄さん、さっき約束したこと憶えてる?」
「さっき?」
「東屋で言ったじゃない。子守歌の続きのことだよ」
「…ああ、あれな」
何だろうと一瞬考えたが、エドワードもすぐに思い出す。
「ちゃんと聞きたい、って、ボク言ったよね」
「おう、約束したもんな」
あの時のアルフォンスは夢現の状態だったから、もしかしたら忘れているかもしれないと思っていたのだ。
「なんだか、子守歌っていう感じがしなかったんだけど…」
「だな。あの続きは、意味合いが全然変わってくるんだ」
「子守歌じゃないの?」
頷くとエドワードは一度深呼吸して。
「…じゃあ、もう一回。最初から通して歌うから、聞いてろよ?」
そう言って、ゆっくりと唇を開いた。
この掌で くるんだ祈り
夢の彼方へ たどり着けるように
花の香りも 月の光も
眠るあなたを 護り続けるわ
わたしの腕も
あなたのその笑顔が 光を喚びさます
夜の闇でさえも 朝を生んで 命を紡ぐの
「……ここまでは、オマエも知ってるだろ?」
「うん。母上がよく、歌ってくれてたもの」
「でな?この後からが、ウィンリィに教えて貰った歌詞だ」
空の蒼さも 木々の翠も
冴えて眩く 瞳を灼くけど
たいせつなあなたの手を 繋いで離さないでいれば
世界の果てで 砂に埋もれても
微笑っていられる
私の歌う声が 眠りを誘うでしょう
その羽を休めて 目が覚めたなら
口づけをあげる
傍にいるから 一緒に歩くから
あなたのその手つなぎ
愛してるからずっと だからどうか微笑って
あなたと辿る跡は いつか空に還り
風と舞うのでしょう
花になって 月と輝いて
いのちの海へゆく
「…こういう歌詞だ」
「へえ……」
歌い終えたエドワードは、喉を潤すように紅茶を口に含む。
「なんだかこう、”女の子の為の歌”って感じがするね。甘くて深くて、ちょっと可愛いっていうか」
「ご明察。この続きの歌詞は、女だけが代々教わるモンなんだと」
「女の子だけが?」
「そ。母親が娘に、娘が自分の娘に、っていう感じで。だからオレ達は知らなかった」
「……そっか、ウィンリィとアルフォンスさんが教えてくれたって、兄さんさっき言ってたもんね。…あれ?」
記憶を掘り起こしたアルフォンスが、ふと気づく。
「じゃあどうして、アルフォンスさんが歌詞を知ってたの?」
女性だけが教わるという兄の言葉通りなら、彼がこの歌詞を知っているはずがないのだ。
「それなんだけどな。…本来この歌詞は、歌える場所ってのが決まってるらしい」
「場所っていうのは…物理的に?」
「あー…いや、正確には”歌える場所”っていうよりも、”歌える場面”だな。ついでに言えば、歌う相手も決まってるんだ」
「……よく解らないよ。どういうこと?」
謎かけのような言葉に、アルフォンスは首をひねるしかない。
「そうだな、ヒントを出すか。…まずは”歌う相手”の方な」
エドワードはカップをソーサーに戻し、どこか楽しげに笑みを浮かべて足を組み替える。
「────ウィンリィはこれを、アルフォンスのためにしか歌わない。つまりオレは、オマエのためにしか歌わない、ってことだ」
「ウィンリィはアルフォンスさんの為にしか歌わなくて、兄さんはボクの為にしか歌わない……」
ウィンリィとハイデリヒ、そしてエドワードとアルフォンスに共通するもの、というと。
「…恋人にしか歌わない、ってこと…?」
「惜しい、ちょっと違うな」
「違うの?」
「だってオレ、オマエのことただの恋人だって思ってねぇもん」
「……それは…そうだよね」
躊躇いのないその言葉に、アルフォンスも頷く。
確かにアルフォンスも、自分や兄の抱える想いが、恋人という枠組みなどとうに越えていることは理解している。
生半可な気持ちや覚悟で、最も濃い血の繋がりである兄弟に触れることなど出来ない。
それにウィンリィとハイデリヒだって、すでにお互いを生涯の伴侶と決めていて、結婚式の日取りを考えるところまで来ているし───。
「もしかして…」
そこで不意に気づく。
共通しているのは、厳密に言えば4人ではなく、ウィンリィとエドワード。
そして自分達の間にある関係と、彼女達の間にある関係。
「自分の、”伴侶”の為に歌うの?」
「その通り」
エドワードがにか、と笑う。
二組の人間の間にそれぞれ横たわるのは、生涯共に過ごそうという、伴侶としての関係。
恋人というには深すぎて、だけど夫婦と呼ぶにはまだ少しだけ照れくさい間柄。
「じゃあ次だ、”歌える場面”。…オレ達はとっくに、それも済んでる。アイツらも済んでて、もう次の段階に行く準備も始めてる」
「次の段階?」
「…そうだなぁ、兄弟のオレ達にはできないことだな。だけど形にはこだわらないって決めたから、それはいいんだ」
どこか吹っ切るような言い方。
「さ、どの場面で歌うのか、解るか?」
「……うん、解ったよ」
兄弟では進むことの出来ない『次の段階』とは、結婚という”形”。
その前の段階、といえば。
「プロポーズ、だよね?」
「正解」
そう、この歌は。
少女たちが成長して大人になり、本当に愛する人が出来たとき、初めて聞かせる歌。
生涯の伴侶と定めた相手からの求婚に対する、承諾の意味を込めて、彼女たちは歌う。
つまりこの歌の、続きの歌詞を知っている男性は。
心底愛し合い、将来を誓った女性がいる、ということ。
「───春にさ。オマエがオレに、花をくれただろう?」
「うん、兄さんもお返しに、花をくれたよね」
春の盛りの頃に迎える、兄弟だけのささやかな記念日に。
花言葉に準えて、お互いに贈った花。
「あれがさ、すげぇ嬉しかったんだ」
カップを両手で包み、唇を付けてエドワードはふわりと笑う。
「そんで、オレもオマエに何かしたいな、って思って」
…ねえ兄さん、誰よりあなたを、あいしてるんだ。
言葉という形にして気持ちを差し出してくれるのは、いつもアルフォンスからだった。
それに対して、解ってるよ、とか、オレもだよ、とか。
形にするのが苦手な自分は、いつだってそんな風に享受するばかりで。
だから時には、自分から弟に何かをしてあげたい。エドワードはそう思ったのだ。
「何が良いだろうって思ってたときに、偶々アイツらからあの歌のこと聞いて。これなら、って思って」
ちろりと目線を上げ、弟を見る。
「ホントはもっとちゃんと練習してから、歌ってやりたかったんだけど。歌詞は書き留めちゃいけない、ってのがしきたりだから、憶えるのが精一杯で…ごめんな、下手くそで」
「そんなことないよ、上手だった」
大臣達との議会や、民の前での演説など、聞かせることに慣れている兄の声は、元々よく通るし耳触りも良い。
歌声は滅多に耳にすることがないけれど、眠りの中で聞いた小さな声も、先程聞いた声も、とても心地よいものだった。
「みんなに自慢したいくらいだよ」
「…勘弁してくれ、そもそもオレが歌ってるってこと自体が、しきたりを破ってるんだから」
照れ笑いと苦笑いの混ざった表情で、エドワードはカップの中身を飲み干す。
「ちぇ、残念だなぁ」
ソファの背もたれに身を預けて、アルフォンスは小さく笑った。
「……でもどうして、ウィンリィは教えてくれたのかな」
「あの歌、ジンクスがあるらしいんだ」
「ジンクス?」
首を傾げたアルフォンスに、エドワードは頷く。
「歌を贈った相手とは、生涯添い遂げられるって」
「…………」
「オレ、ジンクスとかまじないとか、あんまり好きじゃないんだけど。だけど偶には、そういうの信じてみてもいいかなって」
───あたしの母さんもばっちゃんも、おじいさまや父さんに歌ってあげたんですって。
何故自分にこの歌を、と尋ねたエドワードに、ウィンリィはそう言ってにっこり笑った。
───あんたから、歌ってあげて欲しい人がいるから。
───だからあんたに教えてあげようって、ふたりで考えたの。
ね?と彼女が視線を向けたのは、その言葉に頷いた、ひとつ違いの蒼い瞳の青年。
───僕らだけが幸せになるんじゃ、意味がないんです。
───あなたとアルフォンスくんにだって、幸せになる権利と義務があるんですから。
───だからエドワードさん、僕たちみんなで、幸せになりましょうよ。
従弟の言葉はとても優しく深く、重みのあるそれで。
───幸せはきっと、多くて困るくらいが丁度良いんです。
ハイデリヒはウィンリィの肩を引き寄せて、彼女の腹をそっと撫でた。
「アル。…アルフォンス」
居住まいを正し、エドワードはまっすぐに弟を見る。
「だからオレはオマエにだけ、あの歌を贈るよ」
ジンクスに準え彼女たちがくれた、形のない祝福を。
「兄さん…」
「…ずっと、一緒にいような?」
兄の言葉に、アルフォンスは笑顔で頷いた。
「───うん」
いつかこの身が朽ち果て風と舞い、空に還っても。
命を紡ぎ、愛を紡ぐ歌を。
ただひとり、大切なひとのためだけに。
Please sing, sing please a love song.<2>
|