バスタブに湯を張って、手足を伸ばす。
なんとなくのんびり月や星なんかを見たくなって、エドワードはバスルームの窓を開け、バスタブの淵に頭を預けて夜空を見上げた。
気持ちいいな、なんて四肢を弛緩させながら、ぼんやりしていると、開けた窓枠に猫が一匹飛び乗ってきた。
すっかりエドワードとも顔見知りになっている、近所の野良猫だ。
灰色と白の毛並みが綺麗で、とてもトロく、そして人懐こい猫だった。
「よお。おまえも一緒に天体観測しねえか?」
手を伸ばすと、返事をするように、にゃーと鳴く。
「おまえ、普段トロいけど、賢いよな」
やっぱり返事をするように、しっぽをぱたぱたさせる猫を見て、エドワードは声を出して笑った。
「なあ、夜空ってさ、見てると吸い込まれそうってよく言うけど、じーっと見てると、体一つになって宙を浮いてるような気分になってくるよな。おまえもならねえ?」
手を伸ばして、猫の顎の下をくすぐってやる。
猫は気持ち良さそうに喉を晒して目を閉じ、ゴロゴロと言った。
「おまえ、今日の塒決まってんの? まだなら今日はオレんちに泊まってかないか?」
しかし猫はエドワードに背を向けようとして向きを変える。
「なんだ、もう今日の宿決まってんのか」
残念、とエドワードが笑ったときだった。
猫が足を滑らせた。
先にシャワーを浴びてラフなTシャツ姿に着替えていたアルフォンスは、その上にシャツを羽織って、ソファで本を読んでいた。
突然、「うわーっ!!」という兄の声が聞こえ、顔を上げる。
続いて何かをひっくり返すような音が響いた。
何やってるんだろう、と本を閉じて立ち上がろうとしたら、何かがリビングに向かって突進してくるような音が聞こえた。
目をやると同時に、パニックに陥っているらしいびしょ濡れの猫が、ものすごい勢いで飛び込んでくる。
唖然として部屋中を縦横無尽に駆け回る猫を目で追っていたら、続いてバタバタという足音が聞こえてきた。
「アル! 猫が! 落ちてパニックに! バスタブに落ちて足滑らせた!」
兄もパニックに陥っているのか、意味不明なことを言ってリビングに飛び込んでくる。飛び込んできたエドワードは素っ裸だった。
びっくりして、ぶはっ、と吹き出したアルフォンスは、激しく咳き込む。
口元を押さえた右手の指の間から赤い血が伝ったのを見て、エドワードは顔色を変えた。
「アル!? 血ぃ吐いたのか!?」
エドワードが裸のままソファに駆け寄り、覗き込んでくる。
「大丈夫か、アル!」
「わ っ! 近づくな、この馬鹿兄!! なんて格好してるんだよ!!」
「あ」
ようやく自分が全裸だったことに気付いたエドワードが、しゃがみ込んで体を隠す。
「かわいく隠すな、馬鹿っ!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
「とにかくティッシュボックスとって」
体を隠したまま手を伸ばして、ティッシュボックスを弟に手渡す。
血を拭き取って、新たなティッシュで鼻を押さえると、羽織っていたシャツをすばやく脱いで、顔を背けたまま兄に押し付けた。
「とにかくこれ着て」
言われるまま、エドワードは弟のシャツに袖を通す。
「ボタンも留めんの?」
「留めてください」
「……はい」
やっぱり言われるまま、素直にボタンを留めた。
ほら、着たぞ、という声に、ほっとしながら視線を戻すと、エドワードは傍らの床に座り込んだままこちらを
見上げていた。
アルフォンスはその様子を見て、自分のシャツを着せたことを激しく後悔する。
兄の躰に自分のシャツは大きくて、袖口から覗いている手のひらは半分ほど隠れているし、襟元からはきれいな鎖骨が垣間見える。シャツの裾からは直接白い脚が伸びていて、その姿は煽情的だった。
アルフォンスは目を逸らして、更に鼻を強く押さえた。
「アル、大丈夫なのか? ホントに血ぃ吐いたんじゃねえの? 兄ちゃんにちょっと見せてみろ」
せっかく目を逸らしたのに、エドワードは心配そうにわざわざ顔を覗き込んでくる。
「血を吐いたんじゃないよ。だ、大丈夫だから」
「鼻血か? おまえ、さっきシャワー浴びてのぼせたの?」
「…………」
がちゃん、と何かが倒れる音がした。猫はまだ走り回っている。
「あ、そうだ猫! 家中水浸しになっちまう!」
一旦リビングから出てタオルを持ってくると、びしょ濡れの猫を追いかけて、びしょ濡れの兄が大きめのシャツ一枚の姿で走り回る。
「待てっつーの!」
伸びをしたり、屈んだり、見えそうで見えない姿に、くらくらしてきた。
見なきゃいいのだが、男の性でどうしても目で追ってしまい、アルフォンスは更に苦しい状況に追い込まれる。
ようやく落ち着きを取り戻したらしい猫が走り回るスピードを緩めて、アルフォンスの前を横切った。そのまま棚に乗り上がり、体を舐め始める。
「よーし、そこから動くなよ」
タオルを広げた兄が、猫を捕まえようと、やっぱりアルフォンスの前を横切ろうとする。
鼻血の止まったアルフォンスはティッシュを、ぽい、と捨てると、目の前に来た兄の手を掴んで躰を抱き込み、ソファの上にひっくり返した。
両手首を掴んで躰の上に覆い被さると、さすがに驚いたのか、エドワードは目をぱちくりさせた。
「なんだ、アル?」
「この……無自覚なのもいい加減にしろよ、馬鹿兄! 本気で襲うぞ!!」
無防備なまま、兄はまっすぐ見返してくる。
だからそういう目で見るな! とアルフォンスは詰った。
いま、このままシャツをたくし上げて、肌に吸い付き、手を這わせて兄を喘がせたら、どんな顔をするだろう。嫌がって抵抗されたら、さらに煽られて、酷いことをしてしまいそうだ。
アルフォンスはボタンも千切らんばかりに乱暴に兄の襟元を肌蹴ると、首の付け根にガブリと噛み付いた。
これで濡れた声でも出したら本当にこのままやってしまおうかとも思ったが、兄の口から出てきた声は
「ンギャ ッ! いってぇ!!」
と色気の欠けらもないものだったので、理性が勝ってしまった。
噛み付いて出来た痕をぺろりと舐めて、アルフォンスは兄の上から体を起こす。
そのまま立ち上がってリビングを出て行こうとしたら、やっぱりソファの上で体を起こしたエドワードが呼び止めた。
「どこ行くんだ、アル」
「お風呂」
「おまえ、さっき入ったばっかだろ。いままで鼻血出してたんだから入んなよ」
「誰のせいだと思ってるんだ、馬鹿兄」
「ちょっと待て、弟よ。仮にも兄貴をつかまえて、バカバカって……」
「うるさい、馬鹿っ」
アルフォンスはリビングを出て、バスルームのドアを大きな音を立てて閉じる。
「……なに怒ってんだよ〜」
情けない声を出すエドワードの隣に、棚から飛び降りてきた生渇きの猫が、寄り添って見上げてきた。
猫の頭を撫でながら、エドワードは文句を言う。
「だいたいおまえのせいだぞ。分かってんのか?」
分かっているのか、いないのか、猫は「にゃー」とだけ答えた。
あんまり無防備だと襲うぞ
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