北棟の最奥、陽も当たらず人も来ないような寂れた場所に、小さな資料室がある。
資料室というのは名ばかりで、現状は物置だ。常駐する人間はおろか、管理する人間もいない。存在すら忘れられているような場所だった。
書棚に並ぶ色褪せた本と埃を被ったダンボールの山を横目に奥へ進むと、突き当たりに、隙間だらけで本が横倒しになっている書棚がある。
その書棚の左端を両手で少し持ち上げると、カチリと留め金が外れるような音がして棚が軽くなり、ゆっくり引くとドアのように外側へと開いて、行き止まりだったはずの壁の向こう側にもう一つの空間が現れた。
薄汚れた白い壁。天井からは裸のまま電球が一つ下がっている。正面から少しずれた位置に三人掛けの簡素な布張りのソファがあり、極端に狭い室内の中の家具はそれで全てだった。
「……なんだよ、アンタも来てたのか」
別に驚いたふうもなく、いま開けた書棚のドアを静かに閉める。
歩み寄って、ソファに寝ていた先客の脚をぞんざいに床へと退かし、当然のようにその場所に座った。
頭に軍服の上着を被せて寝ていた男が、それをめくって起き上がる。
「ひどいな、鋼の。それが上官に対する態度か」
「サボって寝てるくせに、偉そうに言うな」
ふわあ、と大きなあくびをして、エドワードは金色の髪をボリボリと掻いた。
クッションを寄越せ、とマスタング准将が使っていた青色のそれを奪い取ると、肘掛に添えて無理矢理横になって寝ようとする。
「ちょっと待て。私が先に寝ていたんだぞ」
「もう十分寝ただろ」
「まだ一時くらいしか寝てない」
「一時間もサボれば十分だ」
スペースを少しでも確保しようとマスタングの体をぐいぐいと押して体を丸めるが寝心地が悪く、舌打ちをすると座っていた上司の膝の上に遠慮なく足を伸ばした。
眉を顰めながら、マスタングは呆れたように溜息をつく。
「君は人生の先輩を敬うとか上司を敬うとかないのか」
「ナイ」
マスタングはやれやれと肩を竦め、ぞんざいにエドワードの脚を払い落した。
「狭いんだから詰めたまえ」
「あんたこそ詰めろ」
二人で押し合いをして、結局いつものように半分ずつソファを使う。エドワードはソファの半分を使って上半身を横にして脚は床に、マスタングは両腕をソファの背に伸ばして右の足首を左膝に乗せ、普段人には絶対に見せないようなだらしない格好をした。
この隠れた場所を教えてくれたのはマーズ・ヒューズだった。マスタングは東方司令部から中央に移動になったときに、エドワードは軍内で文献を探していた時に。
「人事部から聞いたぞ。また昇進を断ったそうだな、エルリック少佐は」
エドワードはうるさそうな顔をしながらも、律儀に答える。
「オレはあんたと違って昇進に興味がない」
「中佐に出世すれば、少佐階級では出来なかったことができるようになるぞ?」
「中佐に出世すれば、少佐階級でしか出来なかったことができなくなる。――オフィスを持って、たくさんの部下を抱えて、迎賓だの歓迎レセプションだの視察だの面倒くせー付き合いをして、書類にサインして……冗談じゃねえや」
「なにも縛られることはない。自由にすればいいだろう? 今までがそうだったように」
「ある程度の地位につけばそうもいかねえよ。オレは堅苦しい権力の慣れ合いに腐心するよりも、現場に居たいんだ」
「現場に居れば、時に辛い思いもするだろう? 君の場合は凶悪犯罪も扱っているし」
命を危険に晒すことや、凄惨な犯行現場を目にすることもあるだろうとマスタングは暗に言っていた。
「それでも現場がいい。あんたが少しずつ変えていこうとしてるこの国の暗部から、目を逸らしたくない」
「立派な心がけだな」
「捻くれてるんだ」
「だが、権力を持っていないと出来ないこともあるぞ?」
「だからあんたは権力が欲しいんだろ」
「欲しいな」
「適材適所だ。オレはこのままでいいから、あんたはオレの分まで立派に出世してくれ」
「……アルフォンスはどうしている」
突然出てきた弟の名に、エドワードは顔をあげる。
「なに?」
「不当な降格処分が応えてないか?」
「――ああ」
エドワードは息を吐いて、横になっていたソファから身を起こした。
「今の仕事をクサることもなく淡々とこなしてるよ。オレにも愚痴をこぼさない。オレが何も聞かないせいか、何も話さない」
「まだまだ駄目な国だな、アメストリスは。どちらに理があるのか、誰が見ても明らかなのに」
「だからあんたがいるんだろ。不条理なことがまかり通らないような国にするために」
「私はてっきり君が自分の佐官の立場を利用して、弟の無念を晴らすために大臣に復讐するんじゃないかと思っていた」
「するか、そんなこと。准将のあんたが出来ないのに、少佐のオレに何ができるっつーんだよ」
耳が痛いな、と言ってマスタングは笑う。
「しかし大臣の息子には何か思い知らせることが出来たんじゃないか?」
「佐官の立場を利用して? 冗談じゃねえ。それじゃ大臣の立場を利用して制裁を加えようとしたあいつ等と同じ穴の狢じゃねえかよ。そんな真似、誰がするか」
そこではたと気づいて、エドワードは隣のマスタングを見た。
「タイミングを計ったように大臣が贈賄で捕まったけど、あんたなんかしたのか」
「いいや? もともと大臣を検挙するために内定を進めていた班に、早めに決着をつけるよう、人員を支援しただけだが」
「………」
「君は身内だから自重しているのかもしれないが、理を歪めるにも、理を通すのにも権力が必要になる。理想だけでは道を通すことはできないのが現実だ。――私は必要なら権力を行使する」
本当はエドワードだって知っている。権力に負けないためにはそれを上回る地位と権力が必要になるのだと。
「その権力が人を駄目にするんじゃないのか」
「私の場合は大丈夫さ。踏み外したら後ろから容赦なく『綱紀粛正をするぞ』と引鉄を引いてくれる人間が何人もいるからな。君だってそうだろう?」
「そうだな。機械鎧でぶん殴ってやるよ」
痛そうだ、とマスタングは口の端を上げる。
「顔が腫れて、デートに支障をきたすことになるな。それは避けたい」
「そのデートの相手を相変わらずころころ変えてるけど、あんた結婚しねえの?」
「私のことより、自分はどうなんだ」
「え? オレ? オレ、は……」
返事に詰まる。確かにエドワードと同じ年の同僚や田舎の同級生の中には、もう結婚して子供がいるものもいる。でも結婚なんて――考えたこともない。
「アルフォンスはなんと言っている」
「……なんでここでアルが出てくんだよ」
「弟としては兄の婚期が気になるだろう。一緒に住んでいるわけだし。兄が結婚したら、自分は家を出ていかなければならないからな」
「結婚なんかしねえよ。アルを追い出したりするもんか」
「そうもいかないだろう」
「アルをあの家から出したりしない。……オレのほうが出ていく」
「結婚して?」
「その話題から離れろっつーの。あの家は、アルにやるんだ。名義もアルになってる。――アルが結婚して、オレが出ていくんだよ」
「アルフォンスは結婚しないと思うぞ」
「なんで」
「まあそのうちわかるだろう」
「なんか知ってんのか。教えろ」
「知りたいか? なぜ」
「なんでって……そりゃオレはあいつの兄貴だし……保護者みたいなもんだから」
「保護者ねえ」
なんだよ、とエドワードはむっとして隣の男を睨む。隣の男はただ口元に笑みを刷くだけだ。自分を差し置いて何もかも知っているようなその様子に、エドワードは更に不機嫌になる。
「なぜ君は弟の色事が気になるんだ?」
「別に、気になんて……」
「なぜそんなに気になるのか、教えてやろうか」
「え?」
マスタングは手を伸ばしてエドワードの頬に触れ、自分のほうに引き寄せると唇を合わせた。
驚いたエドワードはマスタングの胸を突き飛ばす。
「なにしやがんだよ!」
手の甲でごしごしと口元を拭うのを見て、傷つくな、とマスタングは笑った。
「アルフォンスとやってみたまえ」
「は!?」
「同じことをアルフォンスとやってみればいい。何かが違うと鈍い君でもさすがにわかるだろう」
唖然としているエドワードに、マスタングは人の悪い笑みを深めた。
「アルフォンスだが、しばらくはこのまま我慢してもらって、2、3か月後に元の階級に戻そう。下級兵士にしておくのは惜しい人材だと常々思っていたんだが、いずれ私にくれないか」
「なにを」
「アルフォンスを」
「……それはアルを傍に置きたいってことか」
「右腕にしたいな」
「オレが決めることじゃない。本人に聞けよ」
下級兵士を准将の傍に置くのは、実際には難しい。敵が多いマスタングならば、さらに強い反発があるだろう。どこまで本気なんだろうと隣の男の顔を見たが、相変わらず表情からは計り知れなかった。
さて、と言ってマスタングがソファから立ち上がる。前をはだけて着崩していた軍服の襟を正して着直すと、部屋を出て行こうとする。
戻るのかとその背に声をかけると、ああと返事をした。
「そうだ、鋼の」
「なんだ」
「週末は空けておいてくれ。間違っても予定は入れるなよ。アルフォンスにも言っておくように」
「わかってるよ。ちゃんと今年も用意してある。ウィンリィも来るってさ。グレイシアさんと一緒にケーキを作るんだと」
「それは楽しみだな」
週末は、ヒューズの一人娘エリシアの誕生日だ。
友達や近所の人を招いて行うささやかなパーティーに参加させてもらって賑やかに祝うのが、彼が鬼籍に入ってからの毎年の恒例行事になっていた。
「プレゼントを忘れるなよ、鋼の」
「あんたこそ」
マスタングは背を向けたまま片手をあげて、この隠された部屋を出て行った。
「アル」
「うん?」
バスルームから出てきた弟を、すれ違いざまに呼び止める。脚を止めて振り向いたアルフォンスは、首からタオルを下げていて、短い金色の髪がしっとりと濡れていた。
「週末だけど、うっかり予定を入れたりすんなよ」
「入れないよ。兄さんじゃあるまいし」
「オレだって入れるか」
残業も入れちゃダメだよ、と笑いながらリビングへ行こうとするアルフォンスの腕を引いて、エドワードは弟をその場に押し留めた。
「なに?」
「あの……いや、大した用じゃないんだけど、あのな」
「うん」
兄弟なんだし、前にしたことあるし、こんなの挨拶みたいなもんだし――どうってことないし。
「あ、あの、な………ああああああのな!」
何か言い辛いことなのかとさすがに気づいたのか、怪訝な顔をしつつもアルフォンスはエドワードからの次の言葉を黙って待っている。
いざ口にしようとしたらなんだか言葉が喉に詰まって出てこない。黙って自分を見下ろしている弟の視線と沈黙にだんだん耐えられなくなる。
どうせ「何言ってんの」とか「何か悪いものでも食べた?」と言われるか、ただ笑われるだけだと簡単に想像ができたので、ええい言っちまえ、と口を開いた。
「ア、アル!」
「なに」
「おま、おまえ、オレに、その、ち、ちゅー、とか、して……み…みません、か……」
最後のほう、尻すぼみになっちまったと、どうでもいいようなことを後悔して、冷や汗をかきながら弟を見上げる。
呆れて笑い飛ばしてくれと思ったが、アルフォンスは笑わなかった。黙ってエドワードを見下ろしている。表情からは何も読み取れない。笑い飛ばすこともできないほど呆れたんだろうか?
とても顔を見ていられなくなって、エドワードは俯く。なにか――冗談だと誤魔化せる言葉はないだろうか。
いや、というか、そのまま言えばいいのか。冗談だ、と。
でもこう、空気というか、タイミングというか……気軽に冗談だと言える雰囲気じゃなくなっている。どうしよう…かな……。
アルフォンスの手がエドワードに伸ばされた。指先が頬に触れ、エドワードの顔を持ち上げてくる。
少しだけ顔を傾けたアルフォンスが右側に近付いてきた。
右の頬に挨拶のキスをしてくれるらしい。なんとなくこの空気を終わりにすることができて、ほっとする。
エドワードが油断したからなのか、最初からそうするつもりだったのか。ふと、アルフォンスが近づくのをやめて身を引く。
反対側に顔を傾けて口を少し開け、小さくはむようにエドワードの唇に触れた。
動けなくなったエドワードからゆっくり離れると、アルフォンスは無言のままリビングへと行く。
全身から血が沸き立つように、かっと熱くなる。
アルフォンスの唇の湿った感じと柔らかさが強烈に脳と細胞に焼き付いて、自分でもおかしいんじゃないかと思うほど真っ赤になりながら、エドワードは居たたまれなくなって強く目を閉じて俯いた。
秘密の部屋
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