「困ったな」
あんまり困ってないような声でアルフォンスは呟いた。
「深いのか?」
小隊長が手元を覗き込んでくる。深いですね、と答えて2人で教官の顔を見た。
「まだかなり痛みます?」
いや、と教官は薄く笑った。
「さっき君が煎じてくれた薬草が、少しは効いてきたようだ。痛みはあるが、さっき程じゃない」
「そうですか。でもこれ、やっぱり縫わないとダメみたいですよ。まだ出血してるし。僕が治療しても構いませんか?」
「治療できるのか?」
「応急手当程度なら。もっともこれからするのは縫合ですけど」
教官は右前腕に裂傷を負っていた。体長が2mもある熊の爪に引っ掛けられたのだ。大事な腱や神経は傷ついていないようだったが、それでも傷はぱっくりと口を開けていた。
水筒の水を貰えますか、というアルフォンスに小隊長は自分の水筒を手渡して、どうするんだと聞いた。
「生理食塩水を精製するんですよ。教官の血から塩化ナトリウムを作って」
手のひらから青白い光が発せられたかと思うと、あっという間に精製し、次は制服に付けていたバッチと金具で、先が曲がった針とピンセットを作った。
自分の袖口から細い糸を作り、今度は石で鍋を錬成して、自分の水筒の水を入れて煮沸消毒を始める。
「アルフォンス、おまえ錬金術が使えるのか?」
「あれ? 言ってませんでしたっけ?」
驚く小隊長に対し、教官は薄っすら笑った。
「その錬金術に私たちは命を救ってもらったんだ。君だろう? 私たちの落下速度を緩めるために、幾つもの受け皿を崖に沿って作ってくれたのは」
「そうなのか?」
アルフォンスは無言で微笑んだだけだった。
「それじゃ用意も出来たので、傷口を洗浄して縫いますよ。ちょっと痛いですが我慢してくださいね」
柔らかな物言いに反し、さくさくと傷口を縫っていった。
自分のシャツを破って包帯を錬成し、負傷箇所に巻いていく。
教官は右腕の他に右脛の部分に強い痛みを訴えていた。骨は折れていないようだが、ヒビくらいは入っているかもしれない。
今度は上着を錬成して伸縮性のある包帯に変え、それを足に巻きつけた。
「リースは? 大丈夫?」
後ろに座っていた女性が、「うん」と返事をして岩に預けていた身体を起こす。
彼女は教官が庇ってくれたおかげで大きな怪我はなかったが、右足首をひどく捻っていて、倍に腫れ上がっていた。
消炎作用がある薬草をやはりアルフォンスが見つけてきて湿布したのだが、あまり効果はないようだった。
崖から滑落してすでに丸一日が過ぎていた。
救助がいまだに来る気配がないところをみると、崖上に残された4人はひょっとして迷っているのかもしれない。小隊長とアルフォンスは方位磁石と教官が持っていた地図でルートを決め、二人を背負って自力で下山することを決めた。
少し遠回りになるが十分な水を確保できる沢伝いに歩く。大人一人を背負って歩くのはなかなか大変だった。
思うように距離が稼げず、ようやく見通しが立ったのは、3度目の野営でだった。
「アルフォンスくんごめんね。重いでしょう」
食事を終えて全員で火を囲んでいたとき、リースがおずおずと話しかけてきた。
「まさか。羽のように軽いよ」
「おまえそれ言い過ぎ」
教官よりはるかに軽いんだから気にすることないんだよ、と小隊長が茶々を入れる。
「でも私、鍛えてるから……。筋肉って重いのよね」
「大丈夫だよ。機械鎧つけてるわけじゃないし」
機械鎧? と教官が聞いてくる。
「あ。僕の兄が右手と左足につけているので」
「エルリックって……ひょっとして君のお兄さんはエドワード・エルリックか? 国家錬金術師の?」
えっ、と小隊長とリースが声を上げた。
「兄をご存知ですか?」
「ご存知もなにも……ということは、君はエルリック兄弟の弟の方の、アルフォンス・エルリックか。………ただの同姓同名だと思ってた…」
道理で、と小隊長が呟くように言う。
「っつーかさ、おまえ、じゃあなんでこんなトコで兵卒なんかやってんの。上にコネいっぱいあるだろ? 兄貴のエルリック少佐とか、マスタング准将とか」
「ああ、一般募集で入ったので。士官学校も出てないし。別に出世して栄華を極めたいわけでもないので、僕には順当ですよ」
俺は栄華を極めたいぞ、と小隊長が言うと、周囲は笑いに包まれた。
「私はエルリック少佐と何度か話をしたことがあるぞ」
「教官が? 兄とですか?」
「市内で何か攻防戦のようものがあったのか、我が家のベランダを壊していってね。次の日謝りに来て、直してくれた」
「うわ。す、すみません」
「いやいや。前より立派に直してくれたよ。外見と中身に随分とギャップがあるお兄さんだね」
「どんなふうにですか? 自分、エルリック少佐って見たことないんですよね」
小隊長は興味津々といった体で身を乗り出してくる。教官は苦笑し、中身は荒っぽいが一度見たら忘れられないような容姿をしているよ、と言った。
「へえ、見てみたいな。なぁアルフォンス、帰ったらその兄貴、俺に紹介してくれよ」
「嫌です」
「って即答かよ。なんで」
「良からぬ虫は早めに排除するようにしているので」
「おまえ……俺の方が階級上なのに、害虫使いかよ」
「階級関係なし。兄に手を出したりしたらシメますよ」
「おまえブラコンか?」
「すごく愛してるだけです」
紹介くらいしてくれよ、と情けない声を出してアルフォンスの体を揺する小隊長を見て、リースと教官がくすくすと笑った。
野営のために熾した炎が、勢いを弱くし、しんと静まった周囲に小さく響くようにパチパチと爆ぜる。
炎の音と一緒に静かな寝息が3つ、空気に混じっていた。
アルフォンスはすでに眠ってしまっている3人と同じく、緑の下生えを褥に、吸い込まれそうな満天の夜空を見上げていた。
頭を巡らし、隣に寝ているリースの寝顔を見る。
そっと手を伸ばして、彼女の金色の髪に触れたが、そういえば女の子なんだから気安く触っちゃいけなかった、とぱっと手を離す。
息を吐いて、また夜空を見上げる。
もう3日も過ぎてしまった。訓練が始まった日から数えると、5日も会ってない。
心配してるかな。
早く帰って兄を安堵させたい、という気持ちはもちろん多大にあったが、それよりもなによりもアルフォンス自身がエドワードに早く会いたいと焦がれていた。
何か兄を感じられるものがないか、帰れなくなってから自分の服を探ったりしたが、携帯していたのは軍が支給してくれたナイフと水筒だけだ。
星が瞬く暗い空に向かって右手を伸ばし、しばらく自分の手の甲を眺める。
手を返して手のひらを眺め、左手で右の手のひらを引き寄せた。
唇に近づけ、いつもエドワードに触れる自分のその手に、そっとキスをする。
指も手も、目を閉じれば兄の気配を思い起こさせる。触れた時の髪の柔らかさと、頬の温度を。
そういえば最近は意識して兄の躰に触らないようにしているから、髪と頬の感覚ばかりを思い出すのかもしれない。
あと、もうちょっとだ。
明日になればこの山から出れる。明日の今頃は、きっと自分は兄の傍に居るはずだ。
明日になれば 。
呪文のように明日になればと繰り返し、暗い空の帳に抱かれてアルフォンスは浅い眠りに付いた。
感じる気配 3
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