洗濯物を入れたバッグをリビングのソファに置くと、エドワードはそのままここ数日近寄れなかった弟の部屋へと向かう。
ドアを開けると室内はアルフォンスの気配に満ちていた。
ほっと息をして部屋へ入り、ベッドへと歩み寄る。
上へ乗り上がると弟が使っている毛布の中へと潜り込んだ。
どうせ今日は帰って来ない。
だったら今日くらい、こっそり甘えてもいいよな?
アルフォンスの匂いが、乾いた地面に水がしみこむように、ゆっくりとエドワードの全身にしみこんでゆく。
優しい気配に包まれながら、目を閉じた。
今日中は無理でも、今度こそアルは帰ってくる。
もうすぐ帰ってくる。
ここへ帰ってくる。オレの元へ。
家の中は真っ暗だった。
リビングに入って電気を点け、アルフォンスは唖然とする。
クッションが投げ出され、床には時計や花瓶や写真たてなどが割れて床に散らかっていた。
余程怒ったのか、それとも不安で押し潰されそうになったのか……。
「兄さん」
何処に居るんだろう、と頭を巡らし、なんとなく予感めいたものを感じて、エドワードの部屋ではなく、自分の部屋へと真っ直ぐ向かった。
静かにドアを開けると、室内にリビングの光が差した。
長く伸びた自分の影の先に、ベッドの上で丸くなっている姿を見つける。
兄はアルフォンスが使っている毛布で自分の身体を包み、壁に凭れて両足を抱え込み俯いていた。
なんとなく部屋の電気を点けてはいけないような気がして、薄暗闇の中をゆっくりベッドに近づいていく。
固い床に跪いてシーツに肘を付き、俯いている兄の顔を覗き込む。
「兄さん?」
エドワードが両膝に埋めていた顔を上げる。
ぼんやりと焦点が合っていない瞳が、見開かれて生気が戻ってくる。
「ア……ル……」
「うん。ただいま」
「……なんで…」
「なにが?」
「だって今日、検査が終わったら軍からの事情聴取があるって……」
「すごく疲れてるから今日はもう帰して下さいって言ったら、あっさり開放されたけど」
「すごく疲れてんのか?」
「そうでもない。先に帰還した4人より僕たちの方が元気だよ」
アルフォンスは、にっこり笑って首を傾げる。
「少しでも早く兄さんを安心させなきゃと思って。対策本部にも病院にも来てくれたでしょ?」
「………心配なんて、してねぇ」
弱々しく憎まれ口をきく兄を愛しげに見つめて、さらりとした金色の髪に手を伸ばそうとした。
「ごめん、4日ぐらい遅れちゃったよ」
エドワードは弟の手を取ると引き寄せ、その手のひらに頬ずりをした。
「………おかえり」
アルフォンスは目を見開き、兄の行為に薄っすら赤くなった。
「じゃあそのリースって女の子は、足を捻挫しただけで済んだのか」
なんとなくお互いの手を触り、2人は会えなかった時間の話をした。
「教官が、それこそ命懸けで守ってくれたからね」
「教官は?」
「縫合はし直さなくていいって言われたけど、足はギプスで固定されてた。当分歩けないみたいだね」
「水はどうしたんだ?」
「一日目は水筒に残ってた水と、あと木の葉の夜露を集めたよ。二日目以降は沢伝いに歩いたから、結局一度も困らなかったな」
ちょっと躊躇って、エドワードは聞く。
「……食いモン、とか、は?」
ああ、と言ってアルフォンスはにっこり笑う。
「熊って不味いんだねぇ」
左手で握りこぶしを作って、兄は弟の頭を殴った。
「いたっ。なにするのさ」
「悪ィ。………でもなんか、すっげー殴りたい気分」
ちくしょー、本っ当に心配するんじゃなかった、とエドワードはブツブツ文句を言った。
やはり疲れているのか、一度寝てしまうと、躰は深い海の底に沈んでいるように重かった。
水面に浮かび上がるように、最初に覚醒したのは意識だった。
誰かが髪を触っていた。
額を撫で、耳元の髪を梳く。優しく愛しげで、その手は死んでしまった母親を思い起こさせる。
そっと眉を撫で、髪を掻きあげるように再び額を撫でる。今度は何度も何度も。
躰はまだ眠っていた。
起きなければ。
ブレダが言っていた。もうずっと寝ていないようだ、と。
手を掴んで、握ってやらなければ。大丈夫だよと安心させなければ。
思うように動かない手に動けと命じた。
兄の手が、離れていってしまう。
いつの間にかアルフォンスが目を開けて自分を見ているのに気付いて、離そうとしていた手が止まった。
「悪い。起こしたか?」
気だるげに挙がった手が、自分の手をそっと掴む。アルフォンスの手は熱かった。
そのまま目を閉じて動かなくなったので、寝てしまったのかと思ったが、再び目を開けたときはいつものように力強い色を宿していた。
「どうしたの」
「……どうもしねぇよ」
「兄さん」
「………寝顔、見に来ただけだ……」
暗闇の中、カーテンから僅かに差し込む月の光を映した兄の目が伏せられる。
そういえばウィンリィに電話したか、とエドワードは話を逸らした。
「ホークアイ大尉が電話してくれたよ。明日の朝一番に、僕からもう一度連絡しようと思ってる」
「……そっか。あいつ、すっげー心配してたからさ。泣きながら電話をよこ 」
「眠れないの?」
アルフォンスが遮る。
「まだ眠れないの?」
「違う。ただ寝顔見に来ただけだって」
アルフォンスは肘を付いて上体を少しだけ起こした。
握った兄の左手を一旦離して、腕を掴み直す。力任せに強く引いて、自分のベッドへと引き倒した。
「なっ……」
自分が掛けていた毛布を大きくめくり上げると、兄の体を中へと包み込む。
脚を絡めてぴったりと躰が付くようにすると、腕の中へ納めてぎゅっと抱き締めた。
「はい、おやすみ」
「ななななな、ちょっと待てっ」
「うるさいな。なに」
「離せバカ!」
「いやなの?」
「いやだ」
「僕はいやじゃない」
「おまえ……っ」
「どうしてそんなに眠れないの。ブレダさんが眠ってないようだって言ってたけど、本当は眠れないんじゃなくて、眠るのが嫌なんじゃないの? 怖い夢でも見る?」
「見ねぇよ、夢なんか」
「僕が帰って来ない夢でも見た? それとも僕が死ぬ夢かな」
「見るかそんな夢ッ!!」
弾かれたように過剰に反応したせいで、かえってバレてしまった。
「 そうか。だから寝るのが嫌なんだね」
「うるせえな。違うって言ってんだろ!」
「だったら大人しく寝なよ」
「だから、これから部屋に戻って寝ようと」
「だめ。ここで寝て」
「てめ、離せっ」
「一緒に寝よ」
「いや…だ……!」
もがくが、アルフォンスの腕はびくともしない。エドワードは弟との体格差を本気で恨んだ。
「離せちくしょう……!」
「なんでそんなに嫌がるの」
「なんでそんなに、一緒に寝たがるんだよ……っ」
「兄さんが強がるからだろ」
「強がってなんか……」
「強がってる。なんでそんなに素直になれないの。 ここには僕と兄さんしかいないのに」
抱き締める腕を、アルフォンスは更に強くした。
「暴れてもムダだよ。絶対に離さないから。諦めてここで寝て。黙って僕に抱かれてろ」
「おまえ……」
「僕の前でまで、強がらなくていいんだよ」
アルフォンスの声が、低く落とされる。強引な口調から優しいものへと変わる。
抗っても無駄だとようやく諦め、体の力をゆるゆると抜くと、それに併せて弟の腕も緩んでいった。
アルフォンスの左手が髪とうなじを撫で、右手が背中をゆっくりと撫でる。
「僕にこういうことされるの、いや?」
返事はない。
「同意がないと、ただのセクハラだな、と思って。………本当に嫌なら、離すから」
「………嫌じゃ、ない」
そう? よかった、と嬉しそうな声で言って、今ならどこまで許してくれるかなぁ、と意味不明なことを呟き、くすくすと笑った。
「お互い、出張で会えないことはよくあるけど、こういう、一緒に居るはずだったのに会えないっていうのは辛いね。兄さんのところに帰る事ばっかり考えて山の中を歩いたよ」
「………クマ食いながらか?」
「そうだね。兄さんは? 僕のこと考えててくれた?」
「……今頃、クマ食ってんのかな、とか」
「ずいぶん熊にこだわるね」
「クマには特別な思い入れが出来ちまったんだ」
あははは、と弟は楽しそうに笑った。
「笑い事じゃねぇよ、バカ」
「そうだね、ごめん」
言葉では謝りつつも、やっぱり楽しそうにしてエドワードの髪へと唇を埋めた。
「明日さ、熊よりも美味しいもの、食べに出かけよう? ふたりで」
「おまえの奢りか?」
「兄さんの奢りでしょ?」
「誰が奢るか。無駄に心配させたくせに」
「うんと心配した?」
そんなに心配してない、と返事をしようとしたが、居ない間の4日間の辛さが一気に思い出され、何も言えなくなってしまった。
「ごめん」
何かが急激に胸に満ち、あふれるように喉元を迫上がる。戸惑いながらそれを抑えようとしたら、息が詰まった。
おまえが悪いわけじゃないと言いたかったが、息が震えそうになって言葉が出ない。
エドワードは弟の背中へと、そっと手を伸ばす。
自分からぎゅ、と抱きついた。
「兄さん?」
何度か口で呼吸をして、小さく呟いた。
「……なん…だか……自分でも、よく…分かんねぇ……」
何が、と聞くアルフォンスの声は優しい。それを意識すると、更に胸が痛んだ。
「おまえといると……安心、するけど、不安になる……」
「どうして?」
「いま立ってる場所が、すげえ不安定なところだって………気付くんだ。ずっとこのままでいたいけど……このままじゃいられないのを、知ってるから」
「どうしてこのままじゃいられないと思うの」
「いつまでも『兄弟仲よく』はいられないだろ。……………きっと近い将来、おまえには一番大切な女の子とかができて………そうしたら、オレ、今度みたいにまた独りかな、とか すげぇ覚悟してるはずなのに、実は全然で……。傍から居なくなったってだけで、こんなに潰されそうになる自分も怖い。そんなに依存してんのかな、って。………なんでアルの事となると、こんなに……弱々しくなっちまうのかな」
僕だって同じだよ、と静かな声でアルフォンスは囁く。
「兄さんが僕の前から居なくなることを考えると、……僕だって胸が潰されそうになるんだよ」
「……ダメだよな、このままじゃ…」
「そうかな? だったらずっとふたりで居ればいいだけの事だよ」
「そうはいかない」
「どうして?」
エドワードは小さく笑う。
「兄ちゃんより好きな子とか、作んなきゃ」
「僕が要らないって言ってるのに?」
「必要になるよ」
「ならない。兄さん以外、誰も何もいらない」
「そんなふうに言ってられない時がくる、必ず」
「来ないよ、一生。 証明してみせる」
「…………」
「一時的な感情だからこんなふうに言えるんだと思ってる? 違うよ」
エドワードを抱くアルフォンスの手が、また少し強くなる。
「僕が居ない間、そんなことを考えてたの?」
違う、と腕の中の兄は言った。
「アルがいない間は………どうしてここにいねぇのかなとか、今なにやってんだろうとか………無事なのかな、って。…………すげぇ、おまえに会いたいって思って」
「それ、本当?」
「………嘘だと思うのかよ」
「いや、嬉しいな、と思って」
のんきに言うな、すげぇ苦しかったのに、と呟いて、細く息を吐いた。
「 怖いんだ。自分でもわかんねぇけど」
「なにが怖いの」
「………おまえが、怖い。……自分の弱さも」
自分は強欲だ、と思う。
強い信念を持って旅をしていた時は、この願いさえ叶えば何もいらないと思っていた。
なのに。
願いが叶ってこの安住を手に入れ安寧に慣れると、別の欲が出てくる。
弟を縛り付ける権利など自分にはないのに、束縛したくないのに、傍にいて欲しいと思ってしまう。
「……アルが、またオレの前から居なくなったら………目の前から居なくなったら、どうしようって……考えただけでも、息が止まる」
アルフォンスが居なくなったら。
アルフォンスの傍に居れなくなったら。
怖いと思う、自分が怖い。
「オレ……どうしちまっのたかな。おまえの気配を感じるのが、怖い。明日は帰ってくる、明日こそ帰ってくるって、ずっと待ってたのに すげぇ、会えるのを待ってたのに……いざアルが帰ってくるとなったら……こんな思いをするくらいなら、逃げ出してしまいたいって、急に……」
「軍の聴取を受けて僕の帰りが明日になってたら、ここから逃げてた?」
「かもしんねえ。……でも、傍に寄って近くで見て触ってアルを感じたいって思うのも本当なんだ。……引き裂かれそうになるって、こういうことを言うのかな。会いたいのと逃げたいのと……二つの思いが、ぐちゃぐちゃに絡まってる……」
「………僕の傍に居るのは、苦しい?」
エドワードは口を噤んで、静かに訊いてきた弟の問いには答えなかった。
お互いの呼吸と鼓動と静けさに包まれながら、長い夜の時間に身を委ねる。
「……なあ」
「なに……」
「おまえさ。………おまえ、急に居なくなったり、すんなよ」
「居なくならないよ。傍に居る。 ずっと、傍に居る」
アルフォンスが耳元へゆっくりキスをする。
優しいキスを受けたエドワードは顔を歪め、弟の肩口へ甘えるように自分の額をこすりつけた。
「愛してるよ……」
弟の囁きに、エドワードの呼吸が揺れる。
濡れる睫を隠すようにぎゅっと目を閉じて、少しでも2人の隙間が埋まるようにと弟の寝着に目尻を押し付けた。
自分の寝着が暖かく濡れるのを、長い金色の髪を撫でながらアルフォンスは感じた。
感じる気配 5
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