「ママが『おすそわけだよ』って」
お隣の6歳になるメルが、色鮮やかなオレンジを5つ抱えて持ってきてくれた。
「おー、ありがとう。うまそうなオレンジだな」
玄関先で受け取ったエドワードは、しゃがみ込んでメルと同じ視線を取り、可愛くリボンで2つに結ってある茶色い髪をなでる。
「中に入って遊んでくか?」
しかし女の子は首を振る。
「ママがもうすぐ夜ごはんの時間だから、おじゃましちゃだめよ、って」
「そっかぁ、残念。じゃあ今度遊ぼうな」
「エド、おれいして」
「オレンジのお礼か? 今日はなにがいい?」
「ちゅーがいい」
わかった、ほっぺにちゅーな、とエドワードは笑って、小さな左頬にキスをした。
メルは兄に絶対気がある、とアルフォンスは思う。
というか、しっかり恋をしているのではないだろうか。
ちゅーして、とか、抱っこしてとか、ぎゅっとしてとか、手をつないでとか……子供の武器をフルに使って、何かにつけて色々おねだりをしてくる。
別に気にすることでもないし、どちからと言えばメルはアルフォンスと気が合うのだが、エドワードにおねだりをした後は、一人前の女性のような顔をしてアルフォンスを見るのだ。
ひょっとして本能的に、誰が自分とエドワードとの恋路の邪魔になるのか、分かっているのかもしれない。
アルフォンスは腕を組んで壁に凭れ、そんな2人の様子を眺めていた。
「ねえエド。どうしていつもほっぺとかおでこなの? メルのくちにちゅーしてよ」
ナマ言ってんな、とエドワードはメルの額を指先で小突いた。
「口は特別な人としかしちゃいけねえの。オレがメルの唇奪うわけにいかねえだろ。未来の恋人に怒られちまう」
「エドがメルの恋人になってよ」
「20年経ってもメルに恋人が居なかったら、考えてやってもいいぞ」
「20年もまてないよ」
「じゃあオレのことは諦めろ」
「なんでいますぐじゃダメなの?」
オレ犯罪者になっちまうだろが、と楽しそうに声を上げて笑う。
「それにもっと大きくなったら、好きな男の子、いっぱい出来るぞ。メルは可愛いから、きっとモテモテだなぁ」
「メルはエドがいいのに……」
ありがとう、と兄は笑って、少女の頭をぽんぽんと叩いた。
玄関先に出て、メルが家の中に入っていくのを確認してからドアを閉め、アルフォンスを振り返った兄は、満面の笑みを浮かべてオレンジを見せる。
「見ろよほら。こんなきれいなオレンジ。なあ、さっそく食う? 剥いてやるぞ」
「……うん」
ダイニングのイスに座って皿とナイフを用意すると、機嫌よくオレンジを剥き始める。最初はリンゴの皮すら剥けなかったエドワードはすっかり家事にも慣れ、器用にオレンジにナイフの刃を入れていく。
反対側に腰を下ろしたアルフォンスは、頬杖をついてその手元をじっと見ていた。
「………兄さんはさ」
「んー?」
「なんで僕にはキスしてくれないの」
ガチャン、と兄は手にしていたナイフを皿の上に落とした。
「…………………………………………は?」
「メルにはキスするのにね」
頬杖をついたまま、ふい、とアルフォンスはそっぽを向く。
「………おまえ、なに言ってんの?」
「……………」
「恋人同士でもねえのに、兄弟でちゅーして虚しくねえか?」
「兄弟だったら、なおさらキスしてくれてもいいんじゃない?」
兄さんは挨拶のキスすらしてくれないよね、とそっぽを向いたまま愚痴る。
「なに不貞腐れてんだよ」
「さあねぇ」
「……兄貴からキスしてもらってもつまんねえだろ?」
「僕はつまらなくない」
「……………」
「どうして僕にはしないんだろうね、兄さんは」
「……別に、しないわけじゃ……」
「そうかな? 僕がメルみたいに『ほっぺにちゅーしてよ』なんて言ったら、する?」
「なに子供みたいなこと言ってんだよ」
「逆だよ。子供じゃないから言ってるんだ」
視線を戻して、困り果てている兄の眼を見つめる。
エドワードはその視線に耐えられなくて、ほんのり赤くなりながら目を伏せた。
ガタン、と音を立てて、アルフォンスはイスから立ち上がる。ダイニングを出て行こうとしたら、アル、オレンジは? と声を掛けられた。
いらない、と答えて、アルフォンスは自室へと向かう。
別にメルに張り合う気はないのだが、やはり面白くない。
犬や猫にだってキスするのに、兄は自分にだけはキスしないのだ。
ひょっとして犬や猫より、兄の中での自分の地位は低いのだろうか、と思うと、本気で落ち込みたくなるアルフォンスだった。
休憩室でコーヒーを飲みながら、エドワードは考えに沈む。
あれ以来、アルフォンスの機嫌が悪い。
もう4日も経つというのに、なかなか機嫌が直らない。
弟の笑顔に会えないのは正直辛くて、そろそろ限界だ。
自分からキスすれば、機嫌が直るんだろうか?
でもなんでだろう? たかがちゅーの一つや二つ、どうでもいいと思うのだが。
まあそのたかがちゅーの一つや二つを、自分はできないでいるのだけれど。
咥えタバコをして、エドワードと同じく壁にもたれてぼんやりしている隣のハボックに、なあ、と声を掛けてみる。
「親しい間柄ならさ、ちゅーとかすんの、当然かな?」
「ん? んー、まあなあ。その『親しい間柄』ってのにもよるなぁ。それ、彼女の話か?」
「ちげーよ」
「んじゃあダチとか家族か? まあ挨拶程度のはするんでねえの?」
「男でも?」
「男では……あんまりしねえかな?」
「親しくても?」
「すげえ親しいならするんじゃないか? 人にもよると思うけど」
「……そうか」
「アルとはどうなのよ。しねえの?」
「小さいときはよくしてたけど……」
エドワードからするということはない。恥かしくてできないのだ、なんだか。
「……したほうがいいかな」
「アルは喜びそうだなぁ。そもそもキスってのは『特別』ってことを証明してるようなもんだし。見ず知らずの人間に、どんなに頼まれたってキスなんかしねえだろ? 心を許してるって証拠なんだよ、ちゅーは」
そのちゅーを貰うまでが大変なんだ、恋愛では、とタバコのフィルターを忌々しげに噛んで、ハボックは天井を見上げる。
恋愛は知らねえけど、とまたエドワードは思考に沈む。
アルフォンスが好きで大切で大事なら、態度で表すべきだよな、と思う。
メルにキスをねだられるとあっさりするのに、アルにしないのは確かにヘンだ。
弟は自分にとって何よりも代え難い、特別な存在なのに、自分はその『特別な存在』だという特権を、アルに与えていただろうか?
自分だけがアルから与えられてた気がする……。
オレはなんて卑怯なヤツなんだ、とエドワードは自分を詰り、髪を掻き毟りたくなるくらい自己嫌悪に陥った。
アルフォンスが怒るのも当然だ。
怒るというよりは、どちらかというと拗ねているのだが。
「なんだ、アルにちゅーできなくて悩んでんのか、大将?」
まあ男にするのは抵抗あるわな、と口の端で笑い、なんなら俺が実験台になってやろうか、と揶揄うように片眉を上げる。
傍らのハボックを見上げる。
エドワードはコーヒーを持っていない左手をハボックの首へと伸ばすと、引き寄せるように自分のほうへと屈めさせる。
そのまま左頬にキスをしてみた。
咥えていたタバコが、ぽろりと落ちる。
ハボックはそのまま固まって石のように動かなくなり、周囲は「きゃー」とか「何やってんだそこの二人」とか騒ぎ出した。
大丈夫、できそうだ。
大人の男相手でも、さりげなく『ほっぺにちゅー』することができた。
同じようにアルにさりげなく、ちゅーすればいいんだ。
待ってろよ、アルフォンス。
今日こそおまえの、その斜めになってしまった機嫌を復活させてやる。
おまえがオレにとって特別な人間なんだと証明してやる。
全然さりげなくなんかなかった事など、エドワードは気付かなかった。
「アル」
「……なんですか」
ソファの肘掛に凭れて本を読んでいたアルフォンスが顔を上げる。
ご機嫌はまだ回復してなさそうだ。
「ちょっと場所、詰めて」
無言でアルフォンスが場所を空ける。
隣に腰を下ろしたエドワードは、さてどうしようと、しばし悩んだ。
なにかきっかけを でもちゅーするきっかけって、なんだろう?
「おはよう」……はいま夜だから無理だし、「おやすみ」……はまだ早い。しまった、「ただいま」の時にさりげなくすればよかったか?
「キスしよう」……はヘンだ。ていうか、オレが一方的にちゅーするんだから、「しよう」はないよな。
だんだん恥かしくなってきたエドワードは、ソファの上で両足を抱えて「うひゃー、どうしよう」と膝の間に顔を伏せてぐらぐらと体を揺する。
アルフォンスは未だ拗ねつつも、そんな兄の様子を眺めて、かわいいな、なんて懲りずに思っていた。
「……アル」
「………なに」
ちょっとだけ顔を上げて、目だけで隣のアルフォンスを見る。
目が合ったらまた恥かしくなって、顔を隠した。
ダメだ。これじゃとてもキスなんかできない。
今日はヤメて、明日にするか? いやいや、時間が経てば経つほどし辛くなる。実際、いまこうやって無駄に時間をかけたせいで苦しんでいるではないか。
今日やらなければ。
いま、ここで。
「アアアアアアルフォンスくん!」
「はい?」
「ちょ、ちょっと、顔かして」
「は?」
顔かしてはねえだろ、と自分で思いつつ、エドワードは膝を抱えていた両手を解く。
ヘンに構えてないで、ぱぱっとやっちまえばいいんだ。勢いをつけて、ちゅって。
ソファの上に膝をついて、アルフォンスに向かい合う。
身を乗り出して弟の右肩に右手を置き、左手でソファの背凭れを掴んで、そっと近づく。
目指すは、すらりとした右頬。
アルフォンスの目が驚きで見開かれる。
動かない弟に更に近づき、唇をよせ ようと思ったが、どうしてもそれ以上近づくことが出来ない。
ここまできて何を躊躇う。
いや、躊躇うというか、なんかこう……。
ぱっ、と離れると、エドワードはぜーぜーと息をした。
緊張しすぎて、つい息を止めていたので、酸欠状態だ。
くそ、キスできなかった、なにやってんだ、とエドワードは自分の不甲斐無さを責めた。
聡いアルフォンスが気付いて、逆に身を乗り出してくる。
「………いま、僕にキスしようとした?」
「……う……」
ついさっきまで拗ねていたのに、一瞬にして機嫌が直ったようだ。
「どういう風の吹き回し?」
「………」
兄さん、と甘く促され、弟の顔が見れないまま、エドワードは呟く。
「だって、だな、………オレだって……おまえのこと、特別扱い……したい」
「特別扱い?」
「すごく親しいんだって、証明したいっつーか……。でもなんで出来ねーんだろ。メルや少尉には、あんなにあっさり出来んのに……」
「ちょっと待った。いま、何気なく不穏なこと言ったね。少尉?」
「ハボック少尉」
「なにをやってるの、貴方は」
「……少尉に出来るなら、アルにもできると思ったんだ」
「…………出来ないの?」
したいけど、出来ない、とエドワードは悄然とする。
「なんでかな。なんかこう、すっげー意識しちまうっていうか……いまから口でアルに触るんだとか思うと……」
心臓がバクバク言って、胸が捩れそうになる、とまるで告白されているようなことを言われ、アルフォンスまでもが照れる。
しかも「口でアルに触る」なんて、そんなふうに生々しく思われていたとは。
「……おまえ、ちょっとの間、じっとしてろよ」
なんとしてでもキスするのだと自分を励まし、もう一度、身を乗り出して弟に近づく。
「挫けずキスしてくれるんだ?」
「黙ってろ」
そっと近づく。
さっきと同じようにして、アルフォンスの肩に右手を置き、左手で背凭れを掴んで。
お互いの息遣いが分かるくらい、近づいてゆく。
弟は琥珀の目を開いて、エドワードの肌をちりちりと焼くほど、じっとこちらを見ている。
「……アル………目、つぶれ」
言われるまま、アルフォンスが睫を落とす。
更に近づくと、アルフォンスの匂いがふわりとして、エドワードの胸郭までをも満たすように、ひたひたと弟の存在を強く感じさせる。
「………なんだか、僕までどきどきする……」
アルフォンスの金色の髪と耳元が、視野いっぱいになるほど近づいた。
あとちょっと、というところで、エドワードの動きはまたしてもぴたりと止まる。
なんでだよ、と自分を罵倒したくなる。
どうして出来ないんだろう? たかが頬に挨拶程度のキスをするだけなのに。何故ここまでアルフォンスという人間を意識してしまうのか。 恥かしいと思ってしまうのか。
「……兄さん」
どきり、と心臓が跳ね上がる。
「なな、なんだ」
ふ、と笑う優しい気配がエドワードを包む。
「無理しなくていいよ。その気持ちだけで、充分嬉しいから」
エドワードの肩を掴んで、体を引き離そうとする。
目を閉じたまま、でも本当に嬉しそうに笑うアルフォンスが切なくて、エドワードは右手を弟の左頬に添え、引き離そうとする腕に逆らって体を寄せると、ずっと触れられなかったその右頬に、唇を触れさせた。
ゆっくり離れると、アルフォンスは目を開けてこちらを見ていた。
やっぱり嬉しそうな笑みを浮かべて。
あんなに触れ合うことに抵抗があったのに。 今はこのまま体を引くのが惜しい気がする。
離れがたい。もっともっと 。
「兄さん」
ありがとう、と動こうとしていたアルフォンスの唇に、また体を近づけてその言葉を奪うように、エドワードは自分の唇を重ねた。
やわらかく触れ合って、離れ、今度は今とは反対側に顔を傾けて、またそっと、くすぐったいような触れかたをする。
二人の間だけ時間の流れが変わったかのように、ぎこちなく、ゆっくりと体を離すと、アルフォンスが信じられないとでも言うように、大きく目を見開いていた。
なにやってんだオレ、と恥かしくて弟の顔を直視できなくなったエドワードは、盛大に赤くなりながら、俯く。
顔なんて上げられなかった。
首筋まで真っ赤になった兄を見下ろしながら、アルフォンスもまた真っ赤になり、エドワードを直視できなくなって、やっぱり俯く。
無言で照れ合いながら、二人は向かい合ったまま、長い間俯いていた。
その日の夜は胸がくすぐったくて、二人ともなかなか寝付けなかった。
キスを
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