頬にキスくらい、してくれてもいいのに などと深く考えもせずに思った。
近所の女の子や犬や猫にはするのに、どうして弟の自分にはしないのだろう、と。
取り合えず家族なんだから、自分はいちばん兄のキスを多く受けていいはずだ。
それは『家族』とか『弟』とかの特権のはずなのに、実際は兄からのキスを受けるのにいちばん遠い位置にアルフォンスはいる。
だから、ちょっと拗ねただけなのだ。
それがまさか 唇にキスをしてくれるとは思わなかった。
子供がするような、拙い、触れるだけのキスだったが、あんなに真っ赤に可愛く照れられるとも思っていなかった。
予想もしてなかったそれに、キスをねだったアルフォンスまでもが、兄に負けじと照れまくってしまった。
何度も繰り返し思い起こしてしまい、その日の夜は胸がくすぐったくて、なかなか寝付けなかったほどだ。
寝ている兄に、こっそりキスをしたりしてはいたが、兄からのキスは大人になってから初めてだった。
それを思うと、更に胸が甘く疼く。
まるで恋を知ったばかりの思春期の少女みたいだ。
たかがキスだけで、ここまで昂揚してしまうなんて。
もし兄を手に入れて、あの躰を抱くことが出来るようになったら どうなってしまうのだろう?
寝癖をつけたまま、ダイニングのイスに座る。
夜勤疲れで頭がぼんやりしたまま、兄が用意してくれた朝食を眺めた。
兄は自分一人が食べる時はずいぶんと適当で、栄養を補給できりゃそれでいいと、パンすら焼かない。
しかしアルフォンスの分を作るとなると、普段のガサツさが嘘のように手間隙をかける。
自分は質より量だが、弟には量より質らしい。
そういえば兄さんは僕の睡眠にも気を使うよな、と均一に火を通された温野菜サラダを眺めながら思う。
アルフォンスがベッドを起きた状態のままにして慌てて家を出て行ったりすると、後でちゃんと直してくれるし、まめにシーツを洗濯してくれるし、天気のいい日は乾燥にも気をつけてくれている。眠っているときなどは、出来るだけ音を立てないように気を使ってくれている………らしい。
気を使いすぎるのか、かえって兄の気配を強く感じて目が覚めたり、大きな音を立てられたりするのだが。
食事と睡眠に関して気を使ってくれているのは、長い間失われていた人間的な機能を、少しでも深く味わえるようにと思ってのことなのだろうか?
「オレンジジュースでいいか?」
どこかのウェイターみたいな黒いエプロンをしたエドワードが、返事を待たずにオレンジジュースをコップに注ぐ。
「……牛乳は?」
「ねえよ」
「ひょっとして、意識して買い忘れてる?」
「…………」
アルフォンスの背後に回った兄は、手を伸ばしてオレンジジュースの入ったコップをトーストなどが乗ったプレートの脇に置く。
「寝癖ついてるぞ」
「夜勤明けに一時間だけ仮眠してきたんだ……」
「このままバスに乗って歩いて帰ってきたのか?」
子供みてえ、とくすくす笑いながら、髪を撫でて寝癖を直し、その手をアルフォンスの右頬へと滑らせた。
すくい上げるようにして横を向かせると、手を添えた反対側のアルフォンスの左頬に、兄は静かに近づいてキスをする。
「おかえり、アル」
ゆっくり顔を近づけてきた時と違い、するだけしたら、すぐに離れる。
アルフォンスは、たったいま兄の唇が柔らかく触れた左頬を、そっと手で押さえ、振り返る。
黒いエプロン姿はすでに背を向けていて、こちらを見ていない。
「……兄さんは? 食べないの?」
「オレはもう食った」
「……そう」
「メシ食ったらすぐ寝ろよ。顔色悪いぞ」
「シャツの色のせいだよ。どこも悪くない」
頬に手をやったまま、兄の後姿を眺める。
唇が触れた頬に火が灯る。熱はじんわりと染み入るように広がって、胸を切なく擽った。
エドワードは洗濯でもするのか、キッチンを出て行く。
後姿を見送って、用意された食事に目を戻す。
「……まいったな……」
こうなるとは思わなかった、と呟いて、盛大に溜息を吐きながら項垂れた。
本当に、最初はただ単に、どうして僕にはキスをしないのだろうと思っただけなのだ。
気軽に兄が他人にキスをすることに嫉妬した、というのもある。
だから大人になってからの初めてのキスを貰ったとき、それだけでアルフォンスは満たされたのだ。
………なのに、習慣になるとは思わなかった。
一日最低でも二回、エドワードは挨拶のキスをしてくる。
それの種類は区々で、「おはよう」のキスだったり「おかえり」のキスだったり、「お休み」だったり「いってらっしゃい」だったりする。
最初はくすぐったくて、単純に嬉しかった。
……本当に、最初だけは。
今はだんだん苦痛になってきている。
理由は もちろん、男の事情だ。
こんなふうに親しげに接触されるのは、当然嬉しい。
エドワードから一番キスをされない人物から、一気に一番キスをされる立場になったのだし、2人の距離がまたひとつ縮まった気がした。
それはいっそ愉快なほど胸を疼かせたが、長い禁欲のせいで下半身もそのうち疼かせるんじゃないかと、笑い事ではないくらい、同時にアルフォンスを悩ませ始める。
自分から「して」と強請った以上、やめて欲しいとは言えない。それに嫌なわけではない。……困っているだけで。
…………どうしたらいいんだろう?
とにかくあんまり意識しないようにすることだよなと、まるで夢の続きでも見ているかのように思いながら、アルフォンスはベッドの上で目を覚ました。
部屋は真っ暗だ。寝すぎてしまった。
部屋のドアの向こうから、人の気配と物音が聞こえる。兄は帰ってきているらしい。
しばらくぼんやりしてから、ベッドサイドにあるスイッチに手を伸ばして、部屋の電気をつける。眩しさに目を細めながら猫みたいに背伸びをすると、もぞもぞとベッドに起き上がり、息を吐いた。
エドワードの足音が聞こえてくる。
前を通り過ぎようとしてアルフォンスの部屋に電気がついたことに気づいたのか、ドアを開けて中を覗いてきた。
「アル? 目ぇ覚めたのか?」
中に入ってくると、アルフォンスのベッドに腰掛けてくる。
「おまえ、疲れてんじゃねえの? 死んだみたいに寝てたぞ?」
手を伸ばしてきて、アルフォンスの前髪をかきあげた。
「寝汗かいてる」
どき、と胸が鳴る。エドワードはキスをするとき、アルフォンスの髪に触る。そのまま手を頬に滑らせ、引き寄せてから自分も近づき、頬に触れるのだ。
予想通り、髪をかきあげていた手がするりと滑ってアルフォンスの頬に添えられる。
兄が身を乗り出して、ゆっくり近づいてくる。
「ちょっ、ちょっと待って!」
アルフォンスは慌てて手のひらで兄の口元を押さえ、近づいてくるのを阻止した。
「なんだよ」
手のひらの下で、くぐもった声がする。
「いや、そこで喋んないで。……くすぐったいっていうか………えーと…」
「じゃあ手ぇ離せ」
「離したいのはやまやまなんだけど、ちょっと待って」
言われた通りに近づくのを止めてくれた兄にほっとしつつ、僕が兄さんにキスを迫られる日が来るとは、しかもそれを拒むとは……となんだか複雑な心境になった。
「あの……ですね、なんていうか………キスしてくれるのは大変嬉しいんだけど、せめて朝と寝起きだけは避けてくれないかな」
「なんで?」
「なんで、って…それは……」
さすがに口には出来なくて、黙る。同じオトコなんだから察してよ兄さん、と情けない思いで目で訴えたが、通じるはずもなかった。
はあ、と溜息を吐いて兄の口元から手を離す。
「とにかく、朝と寝起きだけは 」
アルフォンスの言葉を無視して、エドワードが近づいてくる。
白いシャツの襟元から綺麗に窪んだ鎖骨が覗いて見えた。
その時になって初めて意識したが、エドワードは髪を下ろしている。湿った気配がして、それを証明するかのように兄から石鹸の匂いがした。
小首を傾けると金色の髪が頬と肌の上をするりと滑り、耳から肩にかけての首筋が露わになる。温かい唇が耳元に近い場所に柔らかく触れて、「おはよ、アル」とキスと共に囁かれ、囁きと一緒に熱い吐息が耳に吹き込まれるように届いた。
「シャワー浴びろよ。その間にメシ作っておくから」
固まってしまったアルフォンスから離れた兄は、さっさと背を向け部屋を出る。
一人ベッドに取り残されたアルフォンスは、片手で顔を覆って俯く。
「……やばい。油断した……」
警戒してたのに、この夜、とうとう反応してしまったのだった。
頬にちゅーくらいで反応してしまうなんて、我ながらどうかしてる。
片足だけを座っているイスの上にあげて、その足を両手で抱え込むようにしながら壁に背を預け、アルフォンスは軍の休憩室の片隅で昨日の夜の出来事を考えた。
いや、別に頬にちゅーだけに反応したわけではない。
あの唇の感触とか、至近距離のせいで感じる兄の匂いとか気配とか、微かに触れる髪とか、温もりとか……昨日は特に、あんなふうに無防備に情欲を誘うような躰の一部とかを間近で晒されたから。
あんな挨拶程度のキスに一喜一憂している場合ではないのだ、自分は。
最終目的は兄のすべてを手に入れることなんだから。
兄の、あの勝気に見えるのに優しく細められる瞳とか、親しい人間にだけに向けられる明るい笑顔とか、ちょっと天邪鬼なのに変に素直なところとか、ガサツなのに繊細な部分とか、胸に染みるような声とか 金色のさらさらの髪とか、その髪を纏わらせる首筋とか、時々シャツの襟元から垣間見える鎖骨とか、その先へ続いている肩の線とか胸元とか………。
「って、懲りずに何考えてんだ」
立てた片膝に額を押し付けて、盛大に溜息を吐く。
「なにやってんだよ、ホントに……」
思春期の少女みたいだ、なんて思っていたが、これでは少女ではなく、少年だ。
思春期の少年みたいに、些細な接触で性的なことを意識してしまう。
意識しないようにしようと思い始めたせいで、かえって強く意識するようになってしまった。何も考えず、あっさり受けて、受け流し続ければ良かったのに。
……だって、受け流し続けるなんて出来なかったんだ、と一方で自分に対して言い訳をする。
ゆっくりと近づいてきて、あの唇が、直接自分に触れてくるのだ。ついでにあの躰も一緒についてきて、自分の躰にぴたりと寄せられる。
そのたびに、強く兄を感じてしまう。
匂いとか体温とか………。
「って、あ も 」
なにぐるぐるしてんだよ、と自分を貶して、ふっきるように頭を振る。
今日、また家に帰ったらキスされるんだろうか?
………嬉しいけど、また反応したらどうしよう。
兄に知られるのだけは避けたい。
いや、頬にちゅーくらいなんだから反応はしないだろうが、昨夜みたいに風呂上りの兄にされたり、しかもベッドの上とかでされたりしたら、正直自信がない。
反応どころか今まで耐えた堰が切れて、強行突破なんて獣みたいな真似を……しないだろうけど、したらどうしようと、やっぱり不安だ。
「………発情期かよ」
揶揄するように自分を詰って、はあ、とまた大きな溜息を吐く。
抱えた膝に額を押し付けて俯いたまま、どうしたらいいんだろう、と考えた。
キスは嬉しい。でも困る。困るけど、やっぱり嬉しい。このままキスを続けて欲しい。欲しいけど、いろいろ刺激されたらマズイ。箍が外れる切っ掛けになるのが怖い。 でも僕に唇で触れて欲しい。僕たちの距離を、もっともっと縮められるかもしれない……。
再びぐるぐるし出して、出口のない迷路を彷徨う。
今日は早く帰らなければ。兄よりも早く。
また昨日みたいに風呂上りの無防備な躰を、ぴたりと寄せられないように………。
する。
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