なんとなく会話がなくて、しん、とする。
お互いが動かすフォークの音だけがダイニングを満たす。
2人で夕食を作っている時も必要最低限の会話しかなかったが、向き合って食事を始めてからは、更に会話がなくなってしまった。
もう胸が決まってしまったアルフォンスは、今までぐるぐるしていたのが嘘のように平静だったが、兄はこの空気を居心地悪く感じているらしい。
「アル」
「なに」
「昼間も聞いたけど、オレ、なんかしたか?」
「何かした覚えがあるの?」
「いや、ねえけど ひょっとして、さっき強引に抱きついたこと怒ってんの?」
「怒ってないよ」
「でもなんか……おまえ、おかしくね?」
「おかしくないよ。なんで?」
「だっておまえ、ずっとオレの方を見なかったり、近づいたら逃げたり、目が合ってもすぐに逸らしたりしてたのに、なんか急に……」
そこで言いよどむ。
「急に、なんつーか……物怖じしなくなったっつーか、逃げないし、じーっとオレの方を見てる……ような…」
そんなことないよ、と笑顔を向けようと思ったが、さすがに少し後ろめたかった。
下心を感じ取ったか。
普段疎いくせに、なんでこういう時に限って敏感かな、とちょっと攻撃力を削がれそうになる。自分はそんなにもあからさまに、下心を出していただろうか?
それともずっと避けていたという経緯があったから、兄はアルフォンスの動向をいつも以上に観察していて、敏感に感じ取ったのだろうか?
まあ確かに開き直ってからは「その時」が来るのをじりじりと待っているが。
なんだか野生の肉食動物になったような気分だ。
獲物が何も気づかずにこちらに近づいてくるのを、身を潜めて静かに待っている。
じゃあ兄はさしずめ草食動物か。
狩られるその瞬間まで、自分がいまどんなに危うい場所にいるか知らずにいる、逃げ足の速い草食動物。
捕まえたらどうしようか。
ホントに食っちゃおうかな、などと考えて、段々楽しくなってきたアルフォンスをエドワードは怪訝な顔で見た。
「アル、おまえ目が怖いよ」
「そう?」
笑みを深くして、にっこり笑ったが、兄は眉を寄せますます不信感を募らせたようだった。
先に風呂から上がったアルフォンスは、パジャマ姿で足を組んでソファに座り、兄がバスルームから出てくるのを待つ。
夕食のときは平静だったが、こうやって兄が風呂から上がってくるのを待ってる間に、なんだか胸がどきどきしてきた。
ホント、兄さんのこととなると思春期少年だよな、と自分をちょっとだけ嗤う。
兄の湯上がりを待っているというこの状況が、更に胸をどきどきさせるのかもしれない。全てを自分のものにできるようになったら、あの躰を抱くためにこうやって兄のお風呂上りを待ったりする日がくるのかな、などと考えると、更に心拍数が上がりそうになる。
あんまりそんなことばかり考えていると本当に食っちゃいそうなので、キスを返すだけだキスを返すだけ、と自分を戒めて、冷静になるようにと、雪だの氷山だの白熊だの寒そうなものを思い浮かべる。
ペンギンまで思い浮かべたところで、バスルームからドアを開け閉めする音が聞こえてきた。
ほどなくして、エドワードがタオルで髪を拭きながらリビングにやってくる。
「あれ。アルまだ起きてたのか?」
「うん」
「明日は通常勤務だろ? 早く寝ろよ」
「日勤だけど午後からなんだ」
「ふーん。オレはもう寝るぞ。おやすみ」
エドワードが髪を拭きながら、自分の部屋へと行きそうになる。ちょっと待って、とアルフォンスは慌てて止めた。
「兄さん、何か忘れてない?」
「なにを?」
「キス。してよ」
「………」
戸惑うような訝しむような複雑な顔をして、金色の長い髪を拭く手を止める。
「おまえ……最近、嫌がってなかったか?」
「嫌がってないよ」
嫌がっていたのではなく、困っていただけだ。嘘はついてない。
「して」
ねだるとエドワードは目を細めて逡巡するような表情を見せながらソファに近づいてきた。
アルフォンスに近づいてくる。
飛んで火にいる夏の虫ってこういうことを言うのかな、などと座ったまま考えながら、近づいてくる兄を見上げた。
エドワードはソファの空いていた場所に片膝をついて、弟の短い金色の髪を指で触り、少し屈んで、頬に唇を寄せるためにゆっくり躰を密着させてくる。
石鹸の匂いがする。
濡れて湿った髪がアルフォンスの鼻先を掠めた。
唇の柔らかな感触が右頬にそっと押し当てられる。
アルフォンスの両手が無意識のうちに持ち上がり、その肢体を自分の腕の中へ閉じ込めようと動く。
しかし閉じ込める前に兄の躰は離れ、腕の中をすり抜けていった。
「じゃあな。おやすみ、アル」
すぐにエドワードの顔を見上げたが、もうこちらに背を向けていて表情が見れない。
「待って兄さん」
腕をつかんでリビングを出て行こうとするのを阻んだ。兄は背を向けたまま、やっぱりこちらを見ようとしなかった。
「なんだよ」
声だけは不機嫌そうだ。
「こっちみて」
「はあ? なに言ってんだ。離せ」
「顔見せて」
「見る必要なし。さっさと寝ろ」
頑なに振り向くことを拒んで、捩って掴んだ手を解こうとする。
逃げられる。
アルフォンスは掴んだ手に力を入れて振り解かれないようにすると、エドワードの躰を自分の胸の中へと引き寄せ、そのまま抱き込んで体を入れ替えると、ソファに押し倒した。
頬をほんのり赤く染めた兄が、何が起こったのかわかってない表情をして目を大きく見開き、こちらを見上げている。
やっぱり、とアルフォンスは呟いた。
「……なに赤くなってんの」
「なっ、なにがっ」
「慣れたふりしてたけど、僕にキスするの、本当は恥ずかしかったんだね」
「………」
「そんな恥ずかしがってまで、どうして僕にキスするの」
「おまえが最初にしてって言ったんだろ!」
「言ったけど……そこまでしてくれるとは思わなかったんだ」
すぐに背を向けてたのは、やはり表情を見られたくなかったからだったのか。照れて顔が赤くなるのを隠すための。
「僕にキスするの最初は嫌がってたのに、どうして今は固執するの?」
「嫌がってねえ。にっ、苦手だっただけだ」
「今は? 今だって本当は苦手なんだよね? だからそれが僕にバレないようにいつも顔を隠してたんだよね?」
兄はそっぽを向く。
アルフォンスがその顎を掴んで強引に自分のほうへと向かせると、エドワードは更に赤くなった。
「何だよっ」
「どうして僕にキスし続けるの」
唇を引き結んで、エドワードは答えない。
こうなると頑なに喋らないと、長年弟をやっているから分かる。兄を見下ろしながらアルフォンスは考える。なんとなくではあるが心当たりはあった。
キスをし続けたのは、恥ずかしかったからこそではないだろうか。負けず嫌いを発揮して意固地になっていた、というのはこの兄ならありえる。
それに最初にキスをしてくれたとき、「オレだっておまえのこと特別扱いしたい」と言っていた。すごく親しいのだと証明したいと。
「兄さん」
「何だ」
「兄さんにとって僕って特別な存在?」
「あたりまえだろ!」
即答されて、アルフォンスはほんのり赤くなる。
そういえば以前、オレの一番はアルだと言われたことがあったっけ、などと思い出し、更に照れた。
全然意識してないとはいえ、この人は本当に僕の恋心をくすぐるのが上手いよなと、ちょっと胸を疼かせながら組み敷いた兄を見下ろした。
「……ねえ」
「な、なんだよ」
「もう一回、して」
「なにを」
「キス」
「誰がするかぁっ!」
アルフォンスの下から逃れようと、じたばたともがく。
「さっきまでしてくれたのに」
「もう二度としねえ!」
「恥ずかしいの我慢しながらしてたのがバレたから?」
「たかがちゅーで誰が恥ずかしがるかっ」
「赤くなりながら言っても説得力ないよ」
「るせえ、大体、んなこと出来る体勢かよこれが」
「そうだね、じゃあ僕から近づくから」
体を屈めて右頬を差し出し、兄の顔に近づいた。
「はい」
「バババババ、なにが『はい』だバカッッ!!」
「やっぱり恥ずかしいの我慢してたんだ?」
「してねえ!」
「強情だね」
身を少し起こしてまた兄を見下ろす。手首を掴んで両手を押さえつけ、抵抗するエドワードの動きを封じた。
「なにしやがる、てめえ」
「暴れられると更に押さえつけたくなるものなの」
「これが抵抗せずに居られるかっ。しかもなに笑ってんだ!」
「いや、楽しくて」
「離せ、このっ」
「兄さん」
「なんだよ!」
「キスしていい?」
「はっ?」
「いつもして貰うばかりだったから、お返し」
「ななななに言ってんだおまえ。気持ちだけで結構です!」
「遠慮なさらず」
「遠慮なんかしてねえ!」
「させて」
「ばっ……、ダメダメダメ」
「なんで?」
ゆっくり身を屈め、エドワードに近づいてゆく。
「うっわー! 待て待て、なんでそんなにしたがるんだッ」
「好きだから」
ぐっ、とエドワードが詰まる。
「僕にも兄さんを特別扱いさせてよ」
「そ、そんなことしなくても、わかってるから」
「わかってる? なにを?」
エドワードはまた詰まる。
「わかってないと思うな。僕が普段兄さんをどう思ってるか。……どんな目で見てるかとか」
「……『僕の兄ちゃん、かっこいー!』とか」
「思ってないよ」
「なんだとてめー!!」
また暴れ出しそうな兄を力で抑える。自分が上に乗っているせいで余計に身動きがとれずにもがく姿を見ていると、征服欲を刺激される。ちょっと野獣になりそう、と段々アルフォンスも自分に自信がなくなってくる。
抵抗されればされるほど煽られる。お願いだから、もうそれ以上、暴れないで 。
アルフォンスの目を見たエドワードが、少しだけ口元を引きつらせて急に暴れるのをやめた。
「兄さん」
「なっ、なんでしょう、アルフォンス君」
「態度で示させてよ」
「なに、を…」
「キス。させて」
「…ちょっ、まままままっ」
「待たない」
頬ではなく、唇を貪るためにゆっくり近づく。
顔を少しだけ傾けたので、エドワードは弟が自分のどこにキスしようとしているのかに気づいて、慌てて顔を逸らした。
アルフォンスは左手首を押さえていた右手を離し、横を向いた兄の頬に手を添えて正面を向かせ、顔を逸らせないように顎を掴むと更に近づいた。
しかしあと少し、というところで阻まれる。
自由になった左手で、すかさずエドワードがアルフォンスの口元を覆った。
「アルフォンス君、ちょ、ちょっと落ち着こうか。な?」
宥めるように言う兄の手に、自分の手を添える。
引き剥がされると思ったのか、エドワードは押さえる手に力を入れた。
しかしアルフォンスは引き剥がそうとはせず、逆に自分の口元を覆ったその手が離れないようにと、その上からさらに強く押さえつけた。
エドワードが不審に思って眉をひそめる。
その目を見返しながら、アルフォンスは兄の手のひらをペロリと舐めた。
「ぎゃ っ!」
一転、手を引き剥がそうともがく。その手をがっちり押さえて、深く舐めた。
「離せばかアル! このっ」
抵抗を無視して執拗に舐めていると、エドワードがぎゅっと目を閉じて肩を竦めた。感じたのかなと思ったが、官能的なことにはとことん疎い兄だ、ただ単にくすぐったがっているだけなのかもしれない。
目を閉じている今ならキスできるかも、と口元を押さえていた手を離して兄の唇に近づこうとする。
手のひらを解放されたエドワードは、今度は慌てて自分の口元を覆い隠した。
「……僕が舐めてた手で隠して、嫌じゃないの? 濡れてるでしょ」
剥がそうとしたがさすがに頑なで、そう簡単にはいかない。
「兄さん、手、退けてくれない?」
エドワードはぶんぶんと首を振る。
顔を覗き込むと、絶対やらせるもんかと目が語っていた。
さすがにもう無理かと判断したアルフォンスは、大きく息を吐く。
諦めるしかない。
唇へのキスはやっぱり当分は寝ている時にするとしよう。
でも兄さんは僕の唇にキスしたくせに、なんで僕が唇にキスをするのは許してくれないんだろう? ずるくない? 頬にするのもダメだなんて、あんまりだ。
「……兄さん」
「んん」
「これが最後の勧告だけど、手、退けて」
エドワードは首を振る。
「そう。じゃあしかたないな。兄さんが拒んだせいだからね」
左手はエドワードの機械鎧の手首を押さえたまま、アルフォンスは兄のパジャマのボタンを右手だけで器用に外し始める。
「んんん!?」
ボタンを全て外して前を肌蹴け、胸元を露わにした。
こんなふうにして兄さんの胸を見るの初めてかも、と急速に胸の鼓動が速くなる。
可愛いな、なんて思いながら少しだけ指先を滑らせて肌に触ると、アルフォンスは兄の左の胸の先に、ちゅ、とキスをした。
「ん っ!!」
びくりとエドワードの躰が跳ね上がる。
反応に気をよくして、反対側にも同じく唇を寄せようとする。
しかしキスする前に拳骨が飛んできた。
殴られた場所を押さえて体を起こすと、その隙にアルフォンスの下から逃れようとエドワードがもがく。上体を起こすと飛びずさるように後ろに逃げて、そのままソファから落ちてひっくり返った。
「兄さん、大丈夫?」
殴られてズキズキ痛む側頭部を押さえながら、身を乗り出して床に転がった兄を覗き込む。体を起こしたエドワードは開かれたパジャマの前を掻きあわせて足の先まで真っ赤になりながら、吼えた。
「アルフォンス! てめえ!」
しかし次の言葉が出てこなくて口をぱくぱくさせ、怒りでなのか、それとも羞恥でからなのか身を竦めて少しだけ震える。
ちょっと可哀想になって、宥めるように赤くなった頬を撫でてあげようとそっと手を伸ばしたら、ガブリと噛み付かれた。
「いたっ」
それほど痛くはなかったが、反射的に手を引っ込める。
慌てているせいかエドワードは何度も滑って床に足を取られながらも立ち上がり、走って自分の部屋へと逃げていった。
叩かれた頭と噛み付かれた手をヒリヒリさせながら、その後姿を見送り、バタンと部屋のドアが閉まる音を聞く。
もっとじっくり触りたかったな、などとのんきに考え、威嚇してる猫みたいだったと思い返してちょっと胸を甘く疼かせ、笑う。
また少し、アルフォンスは兄への愛しさを募らせた。
朝からの晴天にもかかわらず、エルリック家の空気はどんより曇っている。
兄の怒りが収まらず、口を利いてもらえない。
向かい合ってダイニングテーブルについていても、眉間に縦皺を刻んだままむっつり黙り込んでいる。
まあいいや、と朝食を終わらせ、今日は午後からの出勤のアルフォンスが食器を片付ける。
洗い物が終わって、今度は洗濯をしようと衣服やタオルを集めていると、出勤の用意を済ませたエドワードが部屋から出てきた。
「兄さん、今日は何時ごろ帰ってくる?」
「………」
「遅い?」
「………」
ふむ、と少し思案し、また兄に声をかける。
「行ってきますのキスは?」
「誰がするかっ!! キス禁止だっっ!!」
アルフォンスはつい笑ってしまった。
「口利かないつもりだったんじゃないの?」
「うっ、うるせえ! いってきます!」
大きな音を立てて玄関のドアを閉める。
口を利かないつもりだったくせにわざわざ挨拶をして出て行く律儀なエドワードに我慢できず、あははは、と声を出して笑った。
兄からのキスがなくなるのは惜しい気もするが、正直ほっとした。
食っちゃおうかな、なんて気軽に考えていたが、実際は大切すぎて、自分は兄に手を出すことなど出来ないのだ。
それとも、この理性の糸がいつか切れるときが来るだろうか?
早く僕のことを好きになってくれないかな、と思いながらアルフォンスは洗濯かごを抱えてバスルームのドアを開けた。
する。3
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