その2人に最初に気付いたのは、一緒に市内を歩いて巡回していた伍長だった。
「おい、あれ見てみろよ」
言われるまま示されたほうに視線を向けると、老夫婦が身を寄せ合って散歩をしていた。
歩き方が少し覚束無い。
最初は見た目より高齢なのだろうかと思ったけど、そうじゃなかった。
2人の手には、白い杖が握られていた。
片方の手で杖をついて、もう片方で相手と手をつないで歩いている。その手はしっかりと、強く握られていた。
目が見えないせいでお互いの顔を見ることはないようだけど、耳を相手のほうへ僅かに向けて、笑顔で話をしている。
「最近、この近くに越してきたらしくてさ、今日みたいに天気がいい日は、ああやって2人でぴったりくっついて散歩してんだよ」
口元をほころばせる人のいい伍長に、僕も緩く笑みを浮かべた。
「慣れない街の道だから、あんなに慎重な足取りなんですね」
ゆっくり歩いて頭の中にこの街の地図を描こうとしているのかもしれない。
擦って歩くように、ほんの僅かずつ2人は前に進む。体をぴたりと寄せ合って、穏やかな表情で。
「いいよなぁ、ああいうの」
僕より2つ年上で独身の彼は、目を細める。
「なんつーの、ああいう……年を取ってからも、寄り添って傍に居るのが自然のような、相手を支えたり支えられたりするの」
「そうですね」
その老夫婦の睦まじい姿を眺めながら、僕は笑みを深めた。
父や母が健在で、たくさん歳を取ったら、あんな夫婦になっただろうか? 僕と兄は、あんなふうに人生をずっと寄り添っていけるだろうか?
お互いに手を取って、お互いに支えあって、一緒に悲しんで、笑って、悩んで、けして楽ではない人生を幸せなものにするために、沢山のものを共有する。
あの人の手を、あんなふうに包み込めたらいいのに。
「アルフォンス、おまえ彼女いる?」
「いませんよ。伍長はいるんですか?」
「俺はいるよ。すっごいはねっかえりなのが」
手に負えないんだ、と言いながら嬉しそうに破願する。
「彼女とは、どこで知り合ったんですか?」
「ドコかな? 幼馴染なんだよ。気付いたときにはもう隣にいた」
じゃあ僕たちとウィンリィのようだ。
そういえばウィンリィもはねっかえりだっけ。身長も体格も力も、もう僕たちの方が上なのに、未だに頭が上がらない。
僕たち3人の中で最強かも、と思っていた時だった。
「危ない!!」
伍長の大声と同時に鋭いブレーキ音がした。彼の視線の先を、弾かれたように見る。
さっきの老夫婦が、両手を取り合って立ちすくんでいた。
2人のすぐ前には黒い車がハンドルを切って止まっていて、中には若い男が乗っていた。
老夫婦が狭い道路を横断しようとした時に、あの黒い車が別の道から急に右折してきたのだと一目見て分かった。
男は急いでいるのか、2人にぶつかりそうになったにもかかわらず、反省するどころかハンドルの上に手を載せて、指先をイライラと小刻みに動かしている。
目が見えない2人は、危うく車に轢かれそうになったことを察知したのか、それとも何が起こっているのか理解できないのか、白い杖を持ったまま、お互いの両手を握り合って動けずにいる。
白い杖の先が目に見えて震えていた。 怖いのだ。
時間にしたらほんの数秒だった。しかし男はその僅かな時間さえ待てないのか、窓を開け、身を乗り出して盲目の老夫婦に向かって怒鳴る。
「さっさと退きやがれクズ! ぶっ殺すぞ!!」
信じられない言葉にその場の空気が驚きで静まり返る。
「あの男……なんてこと言いやがる……!」
伍長の声が背後で聞こえた。
考えるより先に体が動いていた。
僕は車に歩み寄って、窓から引き摺り出さんばかりに男の胸倉を強く掴みあげた。
「もう一度言ってみろ」
「なっ、なんだ、てめえは」
「もう一度言ってみろと言ったんだ」
馬鹿アルフォンスやめろ、と慌てたふうの伍長が間に入って胸倉を掴みあげてた僕の手を強引に引き剥がした。
男は唖然とした様子で僕を凝視してから確認するように軍服を見て、階級章を見た。
「貴様、下級兵士の分際で 」
乱れた襟元を直し、顔を歪めて蔑むように目を細める。
「中央司令部に勤務してるんだな? 名を言え」
「アルフォンス・エルリック」
「お、おい」
迷いなく自分の名前を言った僕に驚いて、伍長が袖を引く。
男はその名を反復すると口の端を引き上げ、高級そうな身なりに似合わない下卑た笑みを浮かべた。
伍長はこの身なりを見て、男がただの一般人ではないと気付き、僕が頓着なく名乗ったのを咎めたのだろう。
「貴様、覚えてろよ。思い知らせてやる」
男は唾を吐きかける。でも吐きかけられる前にそれに気付いて身を引いて避けると、僕に引っかからなかったのが面白くなかったのか、チッと舌打ちをして窓を閉め、車を急発進させた。白い杖の2人はすでに道の端に退いていた。
「……おい……なんか、ヤバいんじゃないのか?」
走り去った車が吐き出した黒いガスを見ながら、伍長が呟く。
それには答えず、僕は老夫婦に歩み寄って静かに声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
しかし2人はビクリと過剰なほど反応して体を強張らせ、僕の声にがたがたと震えながら、「すいません、すいません」を繰り返す。
手を伸ばして宥めようとしたら、その手の気配を感じ取ったのか、さらに怯えるような仕草を見せた。
その反応に、僕は呆然となる。
あの男だけじゃなく、僕自身もこの2人に恐怖を与えてしまったのだと気付き、衝撃でその場から動けなくなった。
見かねた周囲の人が大丈夫ですよ、と夫婦に声を掛けて、2人の背中を順番に擦ると、ようやく安心したのか安堵の溜息を吐き、体の震えを止めた。
「アルフォンス」
ショックを受けた僕を慰めるように、伍長は「もう行こう」と言って肩を叩いた。
それともこの老夫婦のために、僕をこの場から遠ざけようとしたのかもしれなかった。
男はすぐに行動を起こしたらしい。
伝を辿ったのか、市内の巡回から帰ってきたら、さっそく上官に呼び出された。
眉間に深い皺を寄せ上官の少尉は、何故呼び出されたか分かるな、と反省を促すように言う。
ちょっと待ってください、と強引に僕の後をついてきた伍長が割って入った。
「なんだマーチス。私が呼んだのはエルリックだけのはずだが」
「だって黙ってられませんよ少尉。あの男が何者なのかは知りませんが、少尉はヤツが何をしたか知っているんですか? アルフォンスは悪くありません」
「そうなのか、エルリック」
僕は答えられなかった。
「なにか言い訳があるなら聞こう」
「…ありません」
そうか、と少尉は溜息を吐いた。
「アルフォンス・エルリック上等兵。暴行陵虐致傷容疑がかけられている。沙汰があるまで自宅で謹慎していろ」
「そんな! アルフォンスは暴行なんてしてません! ましてや陵虐致傷なんて 」
「真偽はこれから調べられる。それまでは謹慎。これは決定事項だ」
「…わかりました」
「アルフォンス!」
淡々と受け入れる僕に焦れたのか、不当だ、と人のいい伍長は最後まで抗議した。
少尉は「決定事項だ」を繰り返し抗議を寄せ付けなかった。
強い言葉の割には、辞するとき、僕に同情するような、複雑な表情を見せた。
「ただいま」
声を掛けたが返事はない。
兄はいま出張でニューオプティンに行っている。出かけるとき、今週中に帰るのは無理だと言っていた。
キッチンで水を一杯飲んでから、リビングへ行って脱いだ上着をソファの上に放り投げ、腰を下ろそうとしたが、いま座ってしまったらもう動きたくなくなるだろうなと思い、先にシャワーを浴びることにした。
頭から暖かい雨を浴びていると、肌が温かくなってきて、全身から力が抜ける。顔にはり付いた髪を両手でかきあげて、シャワーノズルを見上げ、降り注ぐ無数の水滴をしばらくの間、じっと眺めた。
充分すぎるほどシャワーを浴びたあと、ラフな服装に着替えて頭にタオルを被り、リビングに戻ってようやくソファに座る。
誰も居ない家の中は、しん、と静まって少し薄暗かった。遠くで学校が終わったらしい子供たちの遊ぶ声が聞こえてくる。楽しそうなそれは更にこの家に静けさを呼んだ。
あの盲目の老夫婦は、無事に家に帰り着いただろうか?
明日からの散策が、恐怖心を伴うものにならなければいい。
セントラルがあの男や僕のような人間ばかりだと、思わなければいい。
目が見えないぶん、人の声には敏感なのかもしれない。
僕の声は、どんな恐ろしい色を含んで二人に届いたんだろう?
怖がらせるつもりはなかったのに。
こんな、やるせない気分のときは 。
こんな気分のときは、あの人の笑った顔を見れば、僕の名前を呼ぶ声を聞けば、また前を向いて立ち上がれるのに……。
T wish 1
|