ロッカーで軍服に着替え、司令部の長い廊下をマスタング准将のもとへと歩く。
歩きながら窓の外を見て、天気が良いな、風が柔らかいな、なんてのんきなことを思った。
ニューオプティンは晴れているだろうか? 兄さんもセントラルと同じこの空気を、感じているかな。
ドアの前で立ち止まってノックをすると、中から「どうぞ」という穏やかな応えが返って来る。
「失礼します」
扉の向こうには重厚そうな机があって、黒髪の准将が書類に目を通していた。
中へ入ってその机の前へ行き、立ち止まって敬礼をする。
「アルフォンス・エルリックです」
マスタング准将は見ていた書類を机に放り、顔を上げて微笑んだ。
「やあ、アルフォンス。元気そうだな」
「おかげさまで身体的には健康です」
敬礼を解いて息を吐く。
そういえば、お互い軍服を着てこういう形で会うのは入隊以来初めてだ。
「身体的には健康、ということは精神的には不健康か?」
「理由はよくご存知でしょう」
室内には准将しか居なかった。ホークアイ大尉すら居ない。たまたまだろうか? それとも人払いをした?
「そうだな。少尉から聞いている、よく」
「…少尉?」
「君の直接の上司の少尉。彼は人の上に立てる人間ではないな」
「は?」
「自分はアルフォンス・エルリックをとても叱れないと、私に泣きついてきた」
「……」
「少尉もかわいそうに」
嫌味なセリフのわりには棘がなく、准将は随分と楽しそうだ。
「兄に負けず劣らずのトラブルメーカーだな、アルフォンス。痴漢に間違えられたり、訓練中に遭難したり」
「不可抗力です」
「でも今回の暴力行為は違う」
「……」
「言い訳しないのか。胸倉を掴みあげただけなんだろう?」
「相手にどう取られるかでしょう。セクハラと同じですよ。あの男が暴力を受けたと感じたのなら、些細な行為でも暴力になってしまう」
「よく分かってるじゃないか」
「考える時間をたくさん頂いたので」
「謹慎は楽しかったか?」
「楽しいはずもないでしょう。退屈なだけですよ」
「私は羨ましいが」
「じゃあ代わってください」
「代われるものなら代わりたいな」
どこまで本気なのか、相変わらずこの人は何を考えているのか分からない。ただくすくすと笑っている。
「君を厳罰に処すよう圧力をかけてきた男、誰だか知っているか」
「知ってます」
「ほう。じゃあ君が暴力をふるったとされる相手の男の素性も知っているわけだ?」
「知っています。その『圧力』を掛けてきた大臣の息子でしょう」
あまりいい噂のない大臣で、よく雑誌に載っている。先月も贈賄の噂についての特集記事が組まれていた。写真入のその記事の片隅に写っていたのだ、あの男が。
「いつから大臣の息子だと気付いた」
「胸倉を掴みあげたときですかね」
マスタング准将は少しだけ目を見開いた。
「知っていたのに名前を聞かれてバカ正直に答えたのか? 勇気があるな」
「そうですね。いま考えると、ロイ・マスタングとでも答えておけばよかった」
「君のそういうところ、好きだよ」
准将は揶揄うように言って、声を出して笑った。
「このまま下級兵士をやらせておくには、惜しい人材だな」
「僕には相応な地位です。特別な資格も学歴もないし。……下級兵士なら処分を受けるのも気楽ですし」
「大臣は軍出身の人間なんだ。そのせいで圧力に屈したというのもあるが、なぜ自分が処分されることになったか、わかるか?」
「はい」
「たとえ下級兵士であっても、軍人という権力を持った人間が私的に民間人に手を出してはならない。どんな理由があってもだ。軍事国家であれば尚更権力を行使していると誤解されるような行動をしてはならない。軍のために民間人が存在しているのではなく、民間人のために軍が存在しているんだ。分かっているな?」
「承知しています」
「権力を使って圧力をかけてきた男に言われて、君に権力を行使するようなマネをするなと言うのも矛盾した話だがな。 自分だけ処分されるのが、不服ではないかね」
「そもそも一応一般人でなんの組織にも属していないあの男を、処分することなんて出来ないでしょう」
「そうだな。だが私は不服だ」
「暴力を振るったわけではなく、暴言を吐いただけです彼は」
「言葉は時として暴力になる。そして暴力でつけられた目に見えない傷ほど、根が深くて治らない」
「………」
「人の痛みを理解できる人間が罰せられ、人の痛みや気持ちも理解できず自分の愚かさも知らない人間が、権力を持って大手を振って歩いている。それともその『権力』が人を堕落させるのか。 人倫に劣る人間が国の中枢で権力を持っているとは、アメストリスもまだまだだな」
「暴言を吐いたのは、大臣ではなく息子ですよ」
「そのバカ息子を叱咤するどころか、けしからんと一緒になって怒鳴り込んでくるようなら、親も同罪だ。まあ心配しなくてもすぐに失脚するだろう。黒い噂の絶えない男だし、くだらない私情で軍の上層部に圧力をかけてくるようでは、先が見えている」
言って、准将は紫檀の机に肘を着き、指を組んだ。
「アルフォンス・エルリック。降格処分だ。しばらくの間、一等兵としてやり直したまえ」
「降格? 免職ではないんですか?」
「辞めたいのか?」
「……いえ」
「君のような人間が一人でも多くいれば、軍の綱紀もそうそう乱れないだろう。クビにしたりするものか、もったいない」
それは僕を買ってくれているということだろうか? もったいないと思う程度には。
「今週一杯はこのまま自宅で謹慎。週明けに反省文を提出するように」
ひょっとしてクビにならないよう、准将が手を回してくれたのかもしれない。
僕は「はい」と返事をし、来た時と同じように敬礼をした。
バスを降りて、歩いて、自分の家が見えてくると、安堵とも溜息ともつかない息を吐いた。
週が明ける頃にはさすがに僕も落ち着いているだろう。
早めに反省文を仕上げて、何か 兄さんに心配させないような、降格の理由を考えないと。
安らげる場所に帰り着いてほっとしたが、気持ちは沈んでいる。地位や名誉には興味がないから一般公募の兵士として入隊したのに、降格処分はやはり堪えた。「降格」ではなく「処分」に堪えたのかもしれない。
僕が処分されても状況はなにも変わらないというのも、実はやるせなかった。
あの男はこれからも誰か弱者を威圧したり傷つけたりするかもしれない。そんな人間が野放し状態。男には記憶にも残らない些細なことでも、あの盲目の夫婦はずっと棘が刺さったように痛みを抱えるかもしれない。怯えさせた僕が人の事は言えないけど。
本当に准将の言う通り、近いうちに大臣は失脚するだろうか? 父親が権力を失えば、あの男も少しは殊勝になる? それとれも不遜なままだろうか?
大きな事件でも、些細な事でも、どうすることも出来ない事がこの世の中にはある。自分の無力さを感じることも、やるせない。
また重い息を吐いて、玄関のカギを開けようとしたときだった。
開いている。
「……まさか…」
ドアを開けて中に入り、リビングへ真っ先に行って室内を見渡した。
「兄さん? 兄さん!」
すぐ後ろで懐かしい声が返ってくる。
「ようアル。おかえり〜」
キッチンから出てきた兄さんは、黒いエプロンをして左手に木べらを持っていた。
僕は呆然と立ち尽くしてしまう。
「…な…に……? なんで……」
今週一杯は帰れないはずじゃなかったのか? こんな時間にどうして家にいるんだろう? しかもエプロンをして。
「……兄さん…仕事のはずじゃなかった? 出張は?」
「仕事が終わったから帰ってきたんじゃねえか」
「でも今週は帰れないって……」
「オレ優秀だからなぁ。さっさと片付けてきちまった」
「だって、軍には? 報告書の提出とか」
「だから片付けてきたんだっつーの。それよりハラ減ってねえ? メシ食おうぜ」
陽気に言われて、すとんと力が抜ける。
ええと……兄さんに会ったら、何をしたいと思ってたんだっけ?
考えを巡らせながら、なんとなく室内を見渡す。
この部屋、こんなに明るかったっけ?
兄さんが居るというだけでこんなに印象が変ってしまうものなんだろうか? 不思議な感覚を覚えながら、ふと気付く。
気のせいばかりじゃなかった。時計などが置いてあるボードの上に、花が活けてあった。濃い緑色の葉をつけた、小さな黄色い花。太陽の色をしたその花がささやかに置いてあるだけで、滲むように明るく感じる。
綺麗な花瓶などではなく、水飲み用の素っ気無いコップにただ挿してあるところが兄さんらしいけど。
しかも花は道端でよく見る雑草だ。
ふいに笑みがこぼれた。
「兄さん」
「なんだ」
「どうしたの、あの花」
「ああ。帰って来る途中、草刈りしてるおばさんがいて、捨てるっていうから貰ってきたんだ。せっかく咲いてんだし、かわいそうだろ? それよりメシにしようぜ、メシ」
「こんな中途半端な時間に食べたら、夜遅くにまたお腹が減るよ」
「そんときゃ夜食を食えばいい。それより手ぇ洗って来いよ」
僕は笑顔の兄さんを見下ろして、目を細めた。太陽色の花よりも、兄さんの方が光を放っているような感じがする。この人の方が、眩しい気がする。久しぶりに見る、僕の太陽。
触りたいな。
あれほど焦がれていた兄さんに、今なら触れる。
頬に触れたくて手を伸ばしたが、それに気付かず兄さんは踵を返してキッチンへと消えてゆく。
あとを追って、後ろから兄さんの体を抱こうか?
触りたい。
この腕の中に抱きしめたい。
強く強く。
兄さんが、壊れるくらい。
………振り向いて。
無理矢理にでも、こっちを向かせたい。貴方が欲しいよ。
出張で居なかった間は、会いたいと、そればかりを思っていた。
でも実際に兄さんを前にすると新しい欲が出てくる。
いつからこんなに変質してしまったのかな。いつから……こんなに焦がれるようになってしまったのか。
僕はキッチンに足を踏み入れる。
そっと背後に歩み寄って、兄さんの後姿を見下ろした。
後ろで一つに縛った金の髪。兄さんが動くたびにゆらゆらと揺れて、うなじを露わにする。長い髪が滑り落ちる首筋に、無意識に手が伸びる。
あと少し、というところで突然兄さんが振り向き、僕は驚いてパッと両手を挙げた。
「なにやってんの、おまえ?」
「え…えーと…」
貴方に触りたくて。
「早く手ぇ洗って来いよ。もうメシ出来るぞ」
僕がしようとしてしていたことに気付かず、また前を向いて料理の続きを始める。
どうするつもりだったんだろう、僕はいま。
……ただ、触りたかっただけ……だよな?
キッチンを出て、バスルームに行き、頭から水を被った。
……どうかしている。
いくら落ち込んでいるからって。
頭を冷やしながら、どうせなら服を脱いでから水を被るんだったと、びしょ濡れになったシャツの冷たさを感じながら反省した。
「……手を洗えとは言ったけど、頭まで洗えとは言ってねえぞ」
乾ききってない髪を見て、呆れたように言う。服も着替えたから、兄さんは僕がシャワーを浴びたと思ったようだ。まあ、その通りではあるけど。
食卓は随分と賑やかだった。
テーブルの上にもあの黄色い花が飾られていて、料理の一つ一つも手が込んでいた。どれもこれも僕の好きなものばかり。ワインまで用意されていて、今日は給料日だったっけ? なんて勘違いしそうになる。
出張中にあった出来事や一緒に行った部下の失敗談なんかを、兄さんは無邪気に話す。
その陽気さにつられるように、暗い想いも沈んだ気持ちも払拭されていって、明るい場所へと引き戻されるような気がした。
デザートだと言ってフルーツまで出され、お腹がいっぱいになる。そういえば最近、兄さんがいないせいもあって、怠けてちゃんとした食事を作ったり食べたりしていなかった。
食事の後片付けくらいはやろうとしたけど、兄さんは「いーからいーから」と僕をリビングへ追い払い、一人で皿を洗い始める。
なんとなくひとりでリビングへ行く気にもなれず、後片付けをする兄さんの後ろ姿を入り口のところで眺めた。
手早く終わらせた兄さんは突っ立ってその姿を見ていた僕を見て笑い、ソファでのんびりしようぜ、と僕の腕を引く。
リビングへ行って足を止め、ふと僕を見上げてきた。
「アル」
「なに?」
「眠れなかったのか?」
「寝てたよ、ちゃんと」
「そういえば、目ぇ赤いな」
「だから寝てたってば」
ソファを見て気がついた。しまった、部屋から持ってきた毛布、出しっぱなし。床にはいかにも眠れませんでしたと言っているように、本が何冊も積まれている。まさか兄さんが帰って来るとは思わなかったから、気が回らなかった。片付けてから家を出るんだった……。
兄さんはソファに座ると、僕も座るようにと手で隣をぽんぽんと叩いた。
大人しく促されるまま座ると、にっと笑う。
「昼寝しようぜ。あ、もう昼寝って時間でもねえな。夜寝じゃ早いし、夕寝? ま、いーや。兄ちゃんがよく寝れるように添い寝してやろう」
「え?」
「さあ、遠慮せずおいで、アルフォンスくん」
「ちょっ、ちょっと」
腕をぐいと引かれ、考える間もなく体を倒されると胸に抱かれた。
驚いて体を離そうとしたけれど、兄さんは僕の頭を胸に抱いたままソファに横になる。
……なんだか僕が兄さんを押し倒したみたいなんだけど…。
「に、兄さん、ちょっ、ちょっと待って」
「なんだ?」
「いやあの、なんだ、って言われても……どうしたの、急に」
「寝不足だったみてぇだから、オレが寝かしつけてやろうと思って」
「いいよ別に」
「大丈夫、すぐ眠くなるから。人の体温って、安心するんだよな。存分にオレの体温であったまれ」
毛布を広げると、僕と自分の体の上に掛ける。機械鎧の手で毛布ごと僕の体を抱いて、血の通った生身の左手で、僕の髪を何度も何度も撫でた。
困惑してどきどきしていたけれど、やがてその心地良さに心臓も落ち着いてくる。なんだか全身の力が抜けてゆく。
「……今から寝たら、夜眠れなくなるよ」
「そんときゃ夜は起きてればいい。オレも付き合ってやる」
「兄さん……」
「アルはあったかいなー」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに言って、兄さんは僕の髪に頬をすりよせた。
兄さん 知ってる? 僕が処分を受けたことを。
誰かから聞いた?
これはひょっとして、甘えさせてくれているんだろうか?
僕はなんだか照れくさくなる。でも兄さんの匂いや温もりや感触が心地良すぎて拒めない。
「……兄さん」
「なんだ?」
「…その……触っても、いい?」
ヘンなこと、しないから。
「なに言ってんのおまえ、いまさら。いま触ってるじゃねえか」
「それは…まあ、そうなんだけど」
接触じゃなく、触りたい。
ヘンなヤツ、と笑いつつ、いいよと言ってくれる。
僕は右手を持ち上げて、布越しに兄さんの胸に触った。手を滑らせてわき腹を触り、また手を滑らせて肩と腕を触る。手のひらを兄さんの胸へと戻すと、耳を済ませた。
一定のリズムで刻まれる心音。呼吸するたびに上下する胸。
なにもかも、すべてが愛しい。
兄さんを苦しめるもの全てから守りたいと思っていたけど、僕だって兄さんに守られているのだと伝わってくる。
明るい笑顔や、賑やかな食卓、あちこちに飾られたささやかな小さい花、僕を浮上させようとして繰り出される陽気な話。
何も言わず、何も聞かずに僕を柔らかく包んでくれる。
兄さんの手が、僕の前髪を掻き分けるようにして止まった。指先で前髪を押さえて額を露わにし、そこに柔らかくて暖かなものが押し当てられる。
僕は驚いて顔を上げた。
「兄さん、いま 」
僕にキスした?
兄さんは無意識にしたみたいで、なんだよ? と不思議そうな顔をする。
どうしよう?
いま僕にキスした? と聞こうか?
それともここは、もう一回してくれる? とおねだりするべきか。
「……うーん…」
「なに唸ってんだ。寝ねえのか? それとも一人で部屋で寝る?」
そんなの決まってる。
僕はもう一度兄さんの胸に頭を預けた。
せっかく甘えさせてくれてるんだから、今のうちにいっぱい甘えておかないと。
兄さんの肌の感触を味わいながら目を閉じ、首の付け根に目元をすり寄せた。
肌だけじゃない感触も伝わってくる。
柔らかで温かい肌の他にもうひとつ。兄さんの体温よりも低くて、硬い鋼の感触。
兄さんの全てに包まれていたら、本当に睡魔がやってきた。
意識が遠くなりながら、あの盲目の夫婦の事を思う。
相手の言葉に耳を澄ませ、微笑んで、微笑み返して。
ふたり寄り添って手を繋ぎ、相手を支え、相手に支えられて、少しずつ前に進む。
あんなふうにふたりで生きていけたらと、ずっとずっと思ってた。
兄さんを手に入れたい。
心も体も、過去も未来も全部。
今は激しい想いばかりだけど、何年も何十年も経ったら、今度は穏やかな愛で貴方を包むから。一生一緒にいられるように。
兄さんの左手が、今度は毛布越しに僕の背中を撫でる。
眠りを促すように、静かに何度も。
僕のことを好きになって。
鋼の右手と生身の左手の優しさを感じながら、僕は柔らかな眠りの海の中へとゆっくり沈んでいった。
大臣が失脚したとの記事を見たのはそれから二ヵ月後だった。
T wish 4
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