「なんっじゃ、こりゃーっ!?」
朝に弱いオレはいつも半分寝惚けながら洗面台に立つ。
ぼーっとしたまま歯を磨いたり顔を洗ったりするので、鏡なんか見てるようで見てない。
朝メシ食ってる時にアルが「寝癖がついてるよ」とか「髪の毛結ってあげる」とか楽しそうに世話をやいてくれるので、やっぱり鏡なんか見ないで、そのまま中央司令部にご出勤だ。
でも今日は違った。
アルフォンスの過激な起こし方のせいで、ばっちり目が覚めたオレは、久々に洗面所で自分の顔を鏡で見た。
首筋の目立つ場所に、4つの赤い痣と歯型がくっきり。
「……弟よ、なぜだ」
ひでぇ。オレが何したって言うんだ。気付かないで普段通りの格好してたら、顰蹙モンだ。首がすっぽり隠れる服着ないと、しばらくは外も歩けねえ……。
「ハイネックの服なんて、オレ持ってたっけ?」
洗面台に両手をついて、がっくり項垂れる。締め付けるの好きじゃないから、持ってねえよ確か。
取りあえず、今日、どうしよう。
アルが持ってなかったっけ? 確かそういう服。
一通り朝の準備をしてから、アルの部屋のクロゼットを漁る。淡い若草色のそれを見つけてさっそく着てみると、予想通りデカかった。
ちくしょう。同じモノ食ってるのにこの差はなんだ。
体を取り戻したときは、オレより少し小さかったのに。
あれよあれよという間にオレの背を抜かし、肩幅や腕や足の長さも抜かして大人の男の体になってしまった。
しかも未だ順調に成長中だ。オレだって成長してるけど、この勢いの差はなんだろう?
ちゃんと魚とか食って、カルシウム取ってんのにな。機械鎧だってウィンリィの努力によって前のより軽くなったのに。
納得いかないまま食卓につくと、向い側でアルがコーヒーを飲んでいた。斜に構えて足を組み、むっつりしたまま新聞を読んでいる。怒りたいのはオレのほうだっつーの。
でもこういうアルには逆らわないほうがいいので、取りあえず黙っとく。
なんでこんなに機嫌が悪いんだろう、とオレは記憶を辿った。
やっぱアレかな? 二人でのんびり休日を楽しめなくなったからかな?
オレだってせっかくの休みの日はアルと一緒に本読んだりゴロゴロしたりしたかったけど、ハボック中尉にはこの家を一括買いして貧乏になった時に、軍食堂のチケット40枚綴りを譲ってもらったという借りがあったから、断れなかった。
それともアレかな?
オレが女の子と出かけるってのが気に入らねえの?
「なあ、アル」
「なに」
「おまえ、オレのこと好きなの?」
ぶはっ、とアルがコーヒーを噴出す。
「うわ、汚なっ」
「なに言ってんの、バカ兄っ」
「おまえ、仮にも兄貴をバカ呼ばわりすんなよ」
アルフォンスは更に不機嫌になり、コーヒーまみれになった新聞を丸めて捨てた。…オレ、まだ読んでねえんだけど。
「で、どうなの、アルフォンスくん」
「何が」
「オレのこと好きなの?」
嫌そうな顔をしてそっぽを向くと、小さい声でぼそっと呟く。
「 キライ」
「そうか」
「………なんで嬉しそうな顔してんの」
「いやぁ。へへへ。オレって愛されてるなぁ、と思って」
「なに聞いてたんだよ、キライって言ってるだろ」
「そーかそーか」
つまりアルは妬いてるんだな? オレを誰にも取られたくないってことかな。それで不機嫌なの? 嬉しいなぁ。
弟とは対照的に上機嫌になったオレは、嬉々としてパンを食べ始める。
何か言いたそうに口をパクパクさせていたアルは、諦めたようにため息をついて立ち上がると、無言で俺の後ろに回りこんで、いつものように結い上げるために髪を梳かし始めた。やさしく髪に触れるアルの指先が好きで、いつもうっとりしてしまう。
だから朝は、わざと自分で髪を結わないでそのままにしておく。
この時間を堪能するために、旅が終わった今も髪を切らずに伸ばしているのだ。
「今日、夕飯は食べて来るんでしょ?」
「え、なんで? アルと食うよ」
「そうもいかないよ。一日遊んでくるなら、ちゃんと最後まで女の子をエスコートしてあげなきゃ」
「最後?」
「夕飯食べて家に送るまで。人によっては、ベッドまでだね」
「ア………っ」
「はい、出来た。もう行かないと遅れるよ」
ぽん、とオレの頭を叩くと、洗濯でもするのかバスルームへと消えて行く。いつもなら笑顔で「いってらっしゃい」って送り出してくれるのに。
本当に機嫌が悪いんだな……。
女の子と遊ぶとは言っても、今日は少尉に借りを返すために行くだけなんだからエスコート云々はオレには関係ないだろう。
可愛い弟のためにも、用がすんだらさっさと帰って来なくちゃ。
オレは残りのパンを銜えると、上着を引っ掛けて家を出た。
「うっわ、真っ青だ。キレー! 波飛沫って遠くから見るとホントに白く見えるんだなぁ。お、すんげー、あそこカモメだらけ。魚群が居んのかな?」
滅多にお目に掛かれない新鮮な風景に、オレは車窓に張り付いて外を見た。
「そういえば学校で地球が丸い証拠として、遠くまで続く水平線を見ると緩やかに丸くなってるとか習わなかった? オレ、それ以来いっつも水平線が丸くなってないかどうか見ちゃうんだけど、地球デカすぎて、未だに曲線描いてるかどうか分かんねーんだよな」
あはははは、と笑って我に返る。
しまった、海があんまり綺麗だったから、子供みたいについはしゃぎ過ぎてしまった。
みんなオレを見て、くすくすと笑っている。
「海好きか、大将」
運転しているハボック少尉の問いに、オレは「おう」と答えた。
「やっぱ、母なる海って言うくらいだから、懐かしいようなカンジがする。珍しいしな。あんま見たことねえんだよ」
「ドライブコースに海を選んで良かったわね、ジャン」
ハボック少尉の本命と思しき茶髪の女の子が助手席で笑うと、少尉の目尻が面白いくらい下がった。
「大将のためじゃなく、君のために選んだんだよ。な〜んつってな」
「やだぁ、ジャンったら」
……さっきからこんな調子だけど、二人はもう付き合ってるんだろうか?
「海にはあまり来たことがないの?」
オレと一緒に後部座席に座っていた黒髪の女の子が聞いてきた。オレより二つ年上のおねーさんらしい。
「オレんトコの田舎には無かったし、旅でも海に行ったことは滅多になかったなぁ。湖に行くことはよくあったけど」
「じゃあ夏になったら皆で海水浴にでも行くか」
少尉の提案に、オレは笑って右手をパタパタ振った。
「ムリムリ。オレ泳げねーもん。さすがに機械鎧錆びちまう。それよりさ少尉、今度オレとアルをここに連れて来てくんない? アルもあんまり海みたことないだろうから、ここの景色見せてやりてーんだ」
「アルって?」
助手席の女の子が聞いてくる。
「こいつの1コ下の弟だよ。アルフォンスって言って、震えがくるくらいイイ男だぜ。ま、俺には劣るがな」
「エドワード君に似てる?」
「金色の髪と目が同じってだけで、あんま似てねえなぁ。身長も体格もアルの方が上だし」
きしし、と少尉が笑う。
「んだとコラ。アルの方が成長が早いだけなの! オレだってゆっくりしっかりちゃんと伸びてんだよ!」
「あーはいはい」
「聞けコラ!」
海沿いの道を右へ左へと走っていた車は、砂浜へと続く公園の駐車場に止まった。海辺で少し波と遊ぼうということになったのだが、オレは左足も機械鎧で錆びるからと言って断った。
「右足だけ入れない?」
「そんな器用なこと出来ねえって」
残念そうに言ってくれた黒髪の女の子に笑って手を振って、オレはひとり残り公園のベンチで海を眺める。楽しそうに波際で遊んでいる3人を見て、ふと思った。
アルもそのうち、特別な女の子とか、できるのかな。
休日は必ず2人きりで過ごすようになって、あんなふうに楽しげに笑いあったり、手をつないだり、 キスしたり、え、えっちな事したり、家に連れてきて自分の部屋に入れたり。
「兄ちゃん、かなり嫌かも……」
アルの中での一番は今のところオレだという自負がある。だけどもし、アルに大切な人が出来たら アルの中の一番の場所を、オレはその子に素直に明け渡すことが出来るだろうか?
「想像するだけで、めっちゃ辛っ」
アルとずっと一緒に居たい。
やっと取り戻した『居場所』なのだ。失いたくない。あたたかいアルの体も、ふわふわの金の髪も、やわらかい手足も澄んだ声も笑顔も。
全部がオレの居場所だ。
その居場所がなくなって独りになってしまうことを考えると、もうそれだけで胸が塞がる。この強い独占欲を持っている限り、息が止まるような苦しさが続く。
それでも独占欲のままに、ずっとこのままアルの傍に居たい。
でもそれは、暗にアルの幸せを願ってないって事になるんだろうか?
自分の幸せだけを考えてるって事になるんだろうか……。
海辺のレストランで昼食を取った後、また4人でドライブを続けた。
「どっか行きたいトコあるか?」
「あ。オレ市場行きたい。アルにお土産買って帰りたい」
中尉がぷっと笑った。
「相変わらずな溺愛っぷりだな」
「さっき話してた弟くん?」
うんそう、とオレは中尉の彼女らしき子に向かって返事をした。
「こいつすげーぜ。弟と一緒に住むために、どーんと家一軒購入したんだもんなァ」
ええっ!? と女の子2人が大声を出した。オレの方がびっくりした。
「一人で買ったの!?」
「う……まあ」
おかげで貧乏だ。
「2人で住むためだけに買ったの?」
違う、とオレは笑った。
「今住んでいる家、実は弟の名義で買ったんだ。弟に大切な人が出来たら、オレは家を出るつもり。 弟にはまだ何も言ってないけど」
全然、心の準備なんか出来てないのに、こういう準備だけはしっかりやってる自分がヘンで、笑えてくる。
オレのせいで失われてしまったアルの思春期の時間を、いろいろな形で返してやりたいと、オレはずーっと思っていた。
まずは近い将来。
アルが女の子を連れてきたとき、満面の笑みで「かわいい子だな」って祝福してやって、オレはアルから離れなきゃ。どんなに身を斬られる思いをしても。
「弟のこと、すごく大切にしてるんだね」
隣に座ってる黒髪の女の子に向かってオレは微笑んだ。
「大切だよ。だってオレの宝物だもん」
「自分より大きいのに?」
「大きさ関係ナシ! って、いまさりげなくオレがチビだって言ったな!?」
隣の黒髪の女の子に噛みつくように言ったら、今日の天気のように、明るい笑い声が車内に満ちた。
右手に市場で買った魚介類の袋を下げて、石畳の上を歩いていく。
今日はなかなか楽しい一日だった。
今度はアルと一緒に海に行けたらいいな。オレ、一緒に波際とかで遊んでやれないけど。
夕飯も一緒に食べに行こう、と強く誘われたが、オレはやんわり辞退した。食べて来るようにと出かける時に言われたが、アルはきっとオレの分の夕飯も用意して、食べないで待っている。
黄昏を過ぎて薄暗くなってきた世界の中で、オレの帰りを待つ明かりが見えてきた。
あの明かりの向こう側にオレの居場所がある。
その明かりはいつ終わるか分からない儚さがあって、オレを不安にさせたり、切なくさせたりする。
でもそこには、暖かく包む幸せも同時にあって、オレはその誘惑に抗えない。
先のことはまだ何も考えたくない。
今を、この刹那の時を支えにして、オレは生きている。
すごく、すごく
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