アルフォンスが風邪を引いた。
ただの風邪だったのだが、熱はなかなか下がらなかった。 体を失っていた時間が長かったせいで、常人よりも免疫力がはるかに低かったからだ。
エドワードは必死で看病をした。 仕事を休み、ほとんど不眠でアルフォンスが寝ているベッドから離れなかった。
ようやく熱が下がり始めたのは、発熱から9日を過ぎてからだった。
「大丈夫? 兄さん」
腫れぼったい目をやわやわと開ける。 ただ目を開けるというだけの動作なのに、ずいぶん辛そうだ。
「大丈夫に決まってんだろ。熱くらいで死ぬかよ」
こんな時まで強がらなくてもいいのに、とアルフォンスはちょっと可哀想になってくる。
「本当に病院に行かなくてもいいの?」
「いいよ。どうせ注射されて薬出されて『大人しく寝てろ』って言われるだけだ。誰が行くか」
「注射が嫌いなのも分かるけど、辛いままでいるよりはいいんじゃない?」
ベッドの上でもぞもぞと動き、躰を横向けてアルフォンスの方をみる。
「いーからおまえはさっさと仕事に行け。心配すんな」
「心配するなって言うほうが無理だよ」
サイドテーブルに置いた水を張った洗面器でタオルを絞り、兄の額に置いてやる。エドワードは気持ちよさそうに目を閉じた。
「寒気は? まだする?」
「しねーよ」
「汗は? かいた?」
寝着の襟元のボタンをひとつ外し、アルフォンスは手を中に忍び込ませて胸元を触る。兄の躰がぴくりと動いた。
「あ、ごめん。くすぐったかった?」
「……不用意に触んな、バカ」
すぐ手を服の中から出して、ボタンを元通りに留め、アルフォンスは溜息を吐く。
「汗かいてないね。………これは夜、さらに熱が上がるかも」
「大丈夫だっつーの」
「やっぱり休むよ」
「いい。子供じゃねえんだから、寝てるくらい一人で出来る。それより早く行け」
「……そんなに追い出そうとしなくても」
アルフォンスはもう二週間も仕事を休んでいる。それでなくてもマスタング少将執務室は多忙で有名だ。人数を増やして対応はしているものの、ホークアイ大尉と共に少将の右腕として働いているアルフォンスの長期欠勤は、執務室勤務の同僚に多大なる負担をかけている。 もうこれ以上、休めないのだ。
「ごめん、僕のせいだね」
「あー? なにが?」
「風邪。ごめん」
うつしてしまったのも自分のせいだし、こんなにもあっけなく容態が悪くなって寝込んでしまったのも、連日寝ないで自分を看病してくれていたせいだ。
「いーから行け。ひたすら寝てりゃ治んだよ、こんなの。おまえが帰ってくるまでに根性で治してやる」
「病気に根性は大事だけど、根性だけでもダメだと思うよ」
「ごちゃごちゃうるせえよ。オレはこれから寝るんだ、治癒の邪魔すんじゃねえ」
さっさと行け、と強い口調で言うと、アルフォンスに背を向けて毛布を引き上げて頭から被った。 額に置いていたタオルが枕にずり落ちる。
「兄さん、タオル……」
「いらねえ。気になってぐっすり寝れねえから」
アルフォンスは溜息を吐くと、タオルを洗面器の淵に掛けた。 身を乗り出し、上半身を重ねるようにして毛布の上からエドワードの躰をそっと抱きしめ、少しだけ覗いている頭にキスをする。毛布の膨らみに頬を摺り寄せてそのまま動かず、じっと兄の熱い呼吸を聞いた。
「……なにやってんだよ、早く行け」
「行きたくない。ずっとこうしていたい」
「アホ。さぼるな」
「兄さんは仕事休んで看病してくれたのに、僕は兄さんを一人置いて仕事って……こんなに心配なのに」
「だから、ガキじゃねえんだから、たかが風邪ぐらいで心配してんじゃねえよ。おまえとオレとじゃ状況が違うだろ。いーから行け。これ以上休んで職場での株を下げるな」
「僕の株なんてどうでもいいよ」
「オレのせいでおまえの株が下がるのが嫌なの。……他の人にも、もうこれ以上迷惑掛けるな」
それを言われるとアルフォンスはもう二の句が告げなくなってしまう。渋々離れると、兄の部屋から洗面器を下げ、代わりに消化の良い食事と薬と水差しを持っていった。
「兄さん、ちゃんとお昼食べて薬飲むんだよ」
「あー」
「出来るだけ早く帰ってくるから」
アルフォンスは文字通り後ろ髪を惹かれる思いで兄の部屋を出た。
「アルじゃねえか。もういいのか?」
司令室に入ると、さっそくブレダに声を掛けられた。それに気づいた他の面々も次々に、もういいのか、と声を掛けてくれる。
「ご心配をおかけしました。長々とお休みを頂いて、すみません」
「ずいぶん大変だったみたいだなぁ。保健管理局におまえの兄貴が何度も来てたけど、病人みたいに青い顔してたぞ。アルの熱が下がらない、って怖い顔して」
いま本当の病人になって赤い顔をして寝込んでるんです、とこっそり呟いて、迷惑を掛けたことを詫びた。 自分のデスクに着いてさっそく仕事を始めながら、兵卒のときが一番気楽だったな、と思い起こす。肉体を酷使するハードな訓練ばかりだったが、二週間休んだとしても誰にも迷惑は掛からなかった。 病気で寝込んでいる兄を独り残して、仕事に出なければならないこともなかっただろう。
大丈夫かな、兄さん。
医者に診られるのは嫌だと駄々をこねていたけど、酷いようならやっぱり診せないと。事情を知っている保健管理局の先生に相談して、往診に来てもらおうか?
今頃、寝ているだろうか? ちゃんと水分補給してるかな。 食事の用意はしてきたけど、あの様子じゃきっと食べれないよな。さすがに薬は飲むだろうけど、空っぽの状態で薬を飲んだりして、胃をやられないだろうか? 汗をかいたら着替えるなんてこと、しないだろうし。僕のときは頻繁に着替えさせてくれたけど、自分の事となると、途端に無頓着になるから。
帰りたい。
病を患うと、誰でも気弱になるものだ。 心細がったりしてないかな……。
子供じゃないんだから、と兄は言うが、子供でも大人でも心配なのはものは心配なのだ。とにかく今日は出来るだけ早く帰らないと。
「アル」
「はい?」
名前を呼ばれて顔を上げると、タバコを咥えたハボックが立っていた。
「どうした、眉間に縦皺作って」
「一時間くらいでこの仕事全部終わらないかな、とちょっと夢見てたんです」
「それ、虚しくなんねえか?」
「なります」
「じゃあ虚しくなったところで、執務室に行ってくれ。少将が呼んでる」
親指を立てて、背後のドアを指差した。
ノックして室内に入ると、ちょうど休憩するところだったのか、ホークアイ大尉がマスタング少将の目の前に紅茶を置いたところだった。 入室に気づいた大尉は目元を緩めて、優しげに笑ってくる。
「お呼びですか、少将」
「体はもういいのか?」
「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
大きな紫檀のデスクの向こう側で椅子に深く凭れ、人の悪い笑みをマスタングは浮かべた。 「君のところの鉄砲豆はどうした。出勤してないようだが」
「そんな言い方をしてるから、『火トカゲ』なんて呼ばれるんですよ」
「殊勝に『エドワードくん』と呼んでも『なんだ火トカゲ』と言われそうだが」
それもそうだと思い、溜息をついて、兄は今日は欠勤ですと言った。
「どうした。看病疲れか?」
「それもあると思います。僕の風邪が移って、熱を出して寝込んでいるんです」
「君は看病しないのか」
「しに、帰ってもいいですか?」
「それは困るな」
「……じゃあ言わないでください」
マスタングは足を組み替えて、肘掛に頬杖をついた。
「来週 と言っても4日後だが、北に視察に行く仕事がある。私の代わりに行ってみないか?」
「は?」
「鉱山と市内の視察だ。向こうの将軍に適当に挨拶をして、夜はパーティーに出席、お上品なご婦人方に愛想を振り撒けばいい。にっこり笑って誑かすの、得意だろう?」
「人聞きの悪いことを言わないでください、それに 」
今の段階では兄が心配で出張なんて、と言いかけたアルフォンスを、片手を上げてマスタングが制す。
「炭鉱の経営者は外国人で、少し変わった方法を取り入れている。効率よく稼動させるために、掘り起こした量を労働者自身に時間単位で意識させるというものだ。3ヵ所にチェックポイントを置くそれを、APシステムというらしい。それに、鉱山にしばしば見られるガス爆発や粉塵爆発事故に対する安全対策もなかなか凝ったものなんだそうだ。将軍への挨拶やパーティーはさっきも言った通り適当でいいが、炭鉱の視察は予備知識が必要になる。視察のための資料全てに目を通して勉強するというなら、通常業務は免除しよう。もう4日後に迫っているしな」
マスタングの意図を知ったアルフォンスは、二つ返事でそれを受けた。
「行きます。行かせてください」
早く帰ろうと思っていたのに、深夜になってしまった。 時計の針は既に日付が変わっている。
寝ているだろうか?
足音を殺しながら兄の部屋へまっすぐ向かい、そっと中を覗き込む。 ベッドの上に人型の膨らみがある。寝ているようだ。
ドアを閉めて静かに歩み寄り、スタンドライトを点けてベッドの上に屈み込む。
朝と同じように少しだけ毛布から覗いている頭にキスをすると、ゆっくり前髪を撫でた。 何度も撫でてから額を露わにして、触れてみる。まだ熱い。朝よりも高くなっている。やっぱり根性だけでは下がらなかったようだ。 枕もとに置いた食事を見ると、手を付けた様子はない。しかしさすがに薬は飲んだようだった。水差しの水も半分ほどに減っている。
兄には観念してもらって、明日病院に連れて行こう。
そっと額に当てた手を離すと、エドワードが毛布に埋まりながら目を開けていた。
「兄さん、起きてたの?」
目元を赤く染め、熱で瞳をうるませながらこちらを睨んでいる。 こんな時なのに、なんて色っぽいんだろうと濡れた金色の目に魅入ってしまい、胸が騒いだ。
「……今まで、なにしてやがった」
「え?」
「いま何時だと思ってやがる」
「ああ。ごめん、残務に手間取って」
「オレより仕事かよ」
「兄さんが仕事に行けって言ったんでしょ」
「早く帰ってくるって言った……!」
「そのつもりだったんだけど、事情が変わったんだ」
「オレより大事な事情かよ? 早く帰ってくるって言ったくせに…!」
「兄さん……」
「オレのこと、こんな夜中まで独りにしやがって」
「どうしたの。子供みたいだよ?」
「うるせえ、嘘つきがっ」
瞳をうるませたまま、本気で顔をゆがめている。
ひとりで寂しかったのだろうか? 普段なら絶対言いそうにない我侭だ。熱にうなされながら、今か今かとアルフォンスの帰りを子供のように待っていた? 早く帰ってきて欲しいって? 甘えたかった?
嬉しくてつい口元が笑いそうになるのをぐっと我慢し、神妙な顔で「ごめんね」と言った。
「明日はちゃんと家に居るよ。少将がね、3日間、自宅で出張の資料を見てていいって言ってくれたんだ」
もっともその後には面倒な出張が待っているし、大量の仕事も持ち帰ってきたが。
「……少将? なに…?」
熱のせいで頭が回らないようだ。すぐに理解できなくて目を眇める。
「兄さんの側に居られるように、マスタング少将が3日も休みをくれたんだよ」
「火トカゲが?」
「うん。あの人は兄さんに甘いね」
「…オレじゃなくて、おまえに甘いんだろ、アイツは」
瞼を重そうに瞬かせて、辛そうに目を閉じる。
「苦しい?」
「苦しくなんかねえよ、こんな熱くらい」
我侭から一転、甘えたいのに兄の矜持で強がってしまう姿が愛おしい。 アルフォンスはもう一度屈み込んで、エドワードの頬に自分の頬で触れ、熱いね、と囁いた。 エドワードは力の入らない腕でアルフォンスの躰を押し返してくる。
「おまえ……もうあっち行け。平気だから」
「なんで? 休みを貰ったからゆっくり看病できるよ」
「いらねえ」
「僕の帰りを待ってたんじゃなかったの?」
「待ってねえよ」
「待ってたんだよね?」
押し返す熱い腕に逆らって唇にキスをしようとしたら、口元を塞がれた。
「せっかく下がったのにうつるだろ。もういいからあっち行け」
「元々は僕の風邪なんだから、もううつらないよ」
手を引き剥がして指にちゅっとキスをしてから、兄の唇に軽く触れた。
「……うつらない?」
「うん。抗体持ちだから」
抗おうとする手から力が抜ける。吐息のような溜息を吐いてから全身を弛緩させると、エドワードは両手を伸ばして自分からアルフォンスにキスをねだった。 引き寄せられるまま兄に近づき、唇を深く合わせる。舌を忍ばせると、いつも以上に熱く濡れていた。 貪らないように気をつけながら絡めて、兄の呼吸が苦しくなる前にそっと離れる。前髪をかき上げて額を露わにすると、そこにも唇で触れた。
何度も髪を梳くように額を撫でてから身を起こすと、離れていくのを惜しむかのように、兄がアルフォンスの姿を目で追ってくる。
ちょっと待ってて、と言い置いて手付かずの食器と水差しを手に部屋を出ると、キッチンへ行って水差しの水を冷たい水に入れ替え、熱めのお湯を張った洗面器とタオルを一緒に持って部屋へと戻った。
「兄さん。ちょっと起きて協力してくれる?」
水差しをサイドテーブルへ、それ以外のものは全て床に置いて、木製のチェストから着替えを出す。 体を起こそうとするエドワードを助けるために、背中に枕やクッションを入れ、自分の上着も脱いで丸めて背に差し入れた。 汗で湿ったパジャマを脱がせるために、ボタンを外してゆく。
「……アル」
「なに?」
「すんの?」
最初、何を言われたか分からなかったが、意味を図る為に兄の顔を見ると、自分で言ったことを少しだけ恥ずかしがるような表情をして目を伏せていたので、察した。
「しないよ、病人に。体を拭くだけ」
「……でもオレは……したい…」
「は?」
「……抱いて欲しい」
さすがに言葉を失って、唖然として兄の顔を見た。今のは聞き間違いだろうか?
「……兄さん、熱でもあるの?」
つい真顔で聞いてしまい、なにを言ってるんだ、と自分にツッコミを入れていたら、兄にも頭を叩かれてツッコまれた。
「病気の人間にそんなこと出来るわけないでしょ。起き上がるのも辛いくせに何言ってんの」
「でもアルに触りたい」
ざわりと胸が騒ぎそうになるのを、ぐっと押し殺す。 「いま触ってるよ」
「もっと触りたい……」
こんな時に求められても、とアルフォンスは困惑してしまう。
「……元気になったら、抱いてあげるから」
着ていたものを脱がせると、タオルを絞って手早く体を拭く。ひょっとして熱のせいで欲情しているんだろうかと思ったが、体を拭きながら様子を見る限りでは違うようだ。
どうも調子が狂う。さっきの我侭もそうだが、普段の兄だったら口が裂けても言わなそうなセリフだ。 アルフォンスとしては嬉しいが、いまこんな状態でそんなことを言われても困ってしまう。 朝とは明らかに様子が違う。自分を待っている間に何があったのだろう? 本当にただ甘えたいだけなんだろうか?
それとも熱のせいで正気を失っている?
正気を失ってないと躰を求めてもらえないって、そんな、と自分のその考えを振り払い、深夜まで一人で待っていたからスキンシップが取りたいだけだきっと、と思い直した。
体が冷えないうちに服を着せ、淡いグリーンの新しい寝着のボタンを留めていくアルフォンスの指を、エドワードはぼんやりと見下ろしていた。
ベッドへ寝せて、上掛けを肩がすっぽり隠れるようにと顎の辺りまで引き上げてやる。着替えさせた衣類と洗面器とタオルを手に立ち上がって部屋を出ようとすると、さっきと同じようにアルフォンスの姿を目で追ってきた。行かないでとでも言うように、こちらをじっと見つめている。
「……すぐ戻ってくるから」
全てから守ってあげたいような、その熱い躰を強く胸に掻き抱きたいような……。 なんだろう、この感じ。庇護欲だろうか?
エドワードの様子にも、自分の胸中に湧き上がるくすぐったいようなこの感じにも困惑してしまう。
兄の視線を感じながら、アルフォンスは部屋を出た。
感じたいのに 前編 |