着ていた服の襟元を直し出勤しようとしていたエドワードに、今日は非番のアルフォンスがまとわりついてきた。
「ねえ兄さん、今更だけど僕たちって今は立派な恋人同士だよね?」
「は?」
「恋人同士だよね?」
「………」
「素直にうんって言いなよ」
「突然何を言い出すかと思えば、それは慌ただしい朝にする、しかもこれからまさに出勤しようとしている人間にふる話題か?」
「今日何時に帰ってくる?」
「人の話聞けこら」
「残業しないで帰って来てね」
朝起きた時はいつも通りだったのに、急にどうしたんだ、とエドワードは首を捻る。
アルフォンスは妙に嬉しそうにエドワードの体をぎゅっと抱きしめた。
時々あの弟のことが分からない。今さら恋人云々――突然なにを言い出すんだ。オレ、なんかあいつを怒らすような、もしくは不安にさせるようなこと言ったっけ? いや、そういうことじゃねえのか? 少なくとも怒ったり不安になったりはしていない。むしろ上機嫌だった。――なんだろう? わかんねえ。
仕事が終わり、ロッカーで軍服を脱いで私服に着替えながら首を捻っているエドワードに、同僚が声を掛けてきた。
「エド、おまえ明日休みなんだろ? 俺もなんだ。これから一緒に飲みに行かねえ?」
「二人だけでか?」
「いんや、明日深夜勤の連中五、六人と。会議所の近くに新しいお洒落な感じの店が出来ただろ? あそこに行ってみようぜって話になって」
他にも誘っているなら気軽に断ってもいいか。
「悪い、今日は先役があって。まっすぐ帰ってこいって言われてんだ」
「なんだ、アルフォンスか?」
「うん、まあ」
「おまえらちょっと普通の兄弟っぽくないよな、相手第一で」
「……いいじゃねえかよ、仲良しで」
「まあ仲良きことは美しきかなだ、いいけどよ別に。んじゃまた今度な。どんな店だったか、あとで報告してやるよ」
「よろしくな」
上着を着ると、やれやれ、と息を吐いてロッカーの鍵をかけた。
いったい、アルフォンスはどんな用事があるというんだろう?
玄関のドアを閉め、ただいま、と言おうとしたら、音を聞きつけた弟がすぐにリビングからやってきて、大袈裟に抱擁してきた。
「おわ。な、なんだ?」
「お帰り。すごーく待ってたよ」
猫みたいにぐりぐりとエドワードの頭に額をすりつけ、抱擁が終わった後はまとわりつく。
「ご飯出来てるよ。すぐ食べる? あ、先にお風呂に入る? 上着持つよ」
エドワードの背中を押すようにしてリビングに行くと、剥ぎ取った上着をハンガーにかけ、ブラシで手入れを始める。唖然としてその様子を見ていたエドワードは、我にかえってくるりと向きを変えると玄関へ向かおうとした。
「ちょっーと待った。せっかく帰ってきたのに、どこに行くのかな?」
後ろから肩を掴まれ、逃げようとしたのを阻まれた。
「アルフォンス君、兄ちゃんはさっき帰ってくる時にだな」
「うん」
「お友達に、飲みに誘われたわけだ」
「へえ」
「気味が悪くて怖いから、やっぱりその飲み会に行こうと思う」
「気味が悪いだなんて失礼だな。仕事だった兄さんを労ってあげようとしてるのに」
「結構です」
「そう言わず」
逃げようとするエドワードの腰をがっしり掴み、アルフォンスは引きずるようにキッチンへと連れて行く。テーブルの上にご馳走とかが並べてあったらどうしよう、更に怖い、と思ったが実際は普段通りの食卓だったので少しほっとした。
はい座って、とエスコートされるように椅子を引かれて座らされ、飲みに行かなくても兄さんの好きなスパークリングワインなら買ってあるよとロゼワインを取り出して、弟はご機嫌で封を開ける。
二脚のシャンパンフルートに注がれる気泡を放つ淡いピンク色の液体を、綺麗だな、なんて思いながらぼんやり見ていたエドワードは、ふと気付いた。
……ウチにこんな高そうなシャンパンフルートなんてあったっけ?
少しほっとしたのに、また怖くなって身構える。怖いというか、緊張するというか。なんだろう? 何か要求されるんだろうか?
――なにかとんでもないことを言い出しそうで、ご機嫌なアルが怖い。
アルフォンスは反対側の席に着くと乾杯しよう、とグラスを持ち上げる。それに倣って繊細な細工が施された細いグラスを持ち上げた。
「お仕事お疲れ様」
グラスを合わせるのかなと思っていたら、アルフォンスは目の高さに上げて、目で挨拶をしただけでグラスに口をつけた。
そんなに高いグラスなんだろうか?
更に怖くなったが、腹がすいていたエドワードは食欲に負け、まいいか、と開き直った。
何かとんでもないようなことを言われたら拒めばいい。本気で拒んだらさすがの弟も無理強いはしてこないだろう。もし無理強いしてきたら――そうだ、実家に帰ろう。
フォークに差したレタスを食べながら、ちらりと壁にかかった時計を見る。要求をされるのはこの食事が終わってからだろうから、リゼンブールへの終電には十分間に合う。もし間に合わなかった場合は、走って逃げよう。一人暮らしの友人の家か、それとも年中無休の中央司令部か。
なんだか知らねえけど屈しねえぞ、とエドワードはワインを煽った。そうだ、走る時のことを考えて、あんまり飲まないようにしとこう。
食事を終えて洗いものをしようとしたら、僕がやるから先にお風呂に入って来なよ、とバスルームへ送り出された。
服を脱いでいたら、また弟が顔を出す。
「はいこれ、バスタオル。パジャマは持ってきた?」
「持ってきたよ」
「一緒に入って体を洗」
「いらねえ」
間髪いれずに言ったら、なんで即答するんだよ、とアルフォンスが怒った。
「恋人同士なんだから、たまには洗わせてくれてもいいだろ」
「兄ちゃんは一人でのんびりゆっくり入るのが好きなんだ。ほっとけ」
「僕と一緒に入ったら癒されない?」
「緊張してそれどころじゃ――」
言ってから、しまったと思った。ちらりと弟の方を見ると、案の定、にやにやと笑っている。
「ふうん、そうなんだ。僕と一緒に入ると緊張するんだ。でもなんで? 僕のこと、意識しちゃうから?」
「う、うるせえな、とにかくオレは一人で入るのが好きなんだよ」
そう言って、着ていたシャツを全て脱いだ。ベルトに手を掛けて外そうとした時、ふと気付いて顔を上げると、アルフォンスが妙に真面目な顔をして、エドワードが脱ぐところをじっと見ている。
「出てけ!」
「いや」
「嫌じゃねー!」
「出て行って欲しかったら、両胸にキスさせて」
「そんなこと真面目な顔して言うな!」
バスルームの入り口で押し合ってなんとか外に出すと、入って来れないようドアに鍵を掛けた。
「なんなんだよ」
いつも通りのような気がしないでもないが、とにかくこの困ったあいつのご機嫌っぷりをなんとかしないと。風呂から上がったら、ずばっと聞こう。いったい何が望みなんだと。
風呂から出たエドワードがリビングに行くと、またアルフォンスはいろいろと世話を焼いてきた。
「レモン水飲む? 冷えてるよ」
ソファに座らされ、乾かしてあげるねとか梳かしてあげるとか言われて髪を弄られる。足をマッサージしようかとソファの隣に弟が来た時に、気持ちよくてついうっとりしていたエドワードは我にかえった。そうだ、気持ちよくなっている場合じゃない。
「ちょっと待て。マッサージはいいから話がある」
「マッサージしながらでも」
「いいから座れ」
「座ってますが」
エドワードはごほんと咳払いをして、弟に向き直った。
「アルフォンスくん」
「はい?」
「怒らないから言ってみなさい」
「なにを」
「なにか兄ちゃんにお願いがあるんじゃないのか? おねだりとか」
アルフォンスは目を見開く。なんでわかったの、とでも言いたげだ。――わからいでか。
「言ってみなさい」
「叶えてくれるの?」
「それは聞いてみないと分かんねえ。兄ちゃんにも都合があるからな。取りあえず言ってみなさい」
いったいどんな無理難題だろう? ――ヘンなことやらせて、とか言われたら、やっぱり当初の予定通り脱兎コースにしよう。
緊張しながら返事を待つ。
アルフォンスは、うーん、と暫し考え、すでに用意してあったソレをどこからか取り出して見せた。
「これなんだけど」
その手には、細長い棒が握られていた。
「……なんだそれは」
「耳かき」
アルフォンスは、にっこり微笑んだ。
「膝枕で耳掃除して欲しい」
予想できなかったまさかのおねだりに、エドワードは唖然とした。
なんでこういうことになっているんだろう?
首をかしげながらエドワードは弟の耳を掃除する。
膝の上では向こう側を向いたアルフォンスがソファから長い脚をはみ出させて横になっていた。猫だったら喉をゴロゴロ鳴らすんじゃないだろうかと思うくらいご機嫌だ。
弟の耳は綺麗でいまさら耳掃除をする必要なんかなかったが、それでもやって、とせがまれて耳かきでちょこちょこと撫でると、アルフォンスはくすぐったい、と幸せそうに笑った。
「はい、終わり」
エドワードが言うと、アルフォンスはくるりと向きを変える。
「反対側もやって」
「こっち向くなよ。反対側に回れ」
「いいからいいから」
場所を移動しようとしたエドワードを抑えるように、腹にぴったりくっついてアルフォンスは目を閉じた。
「あんまりくっつかれると、やりづれえんだけど」
「いいからいいから」
「こっちの耳も綺麗じゃねえかよ」
「実は一昨日自分で掃除したばっかりなんだよね」
「じゃあ掃除する必要ねえだろ」
「そんなこと言わず、やって」
しかたなく反対側の耳も耳かきで撫でるように弄ったが、今回はなんだか落ち着かなかった。……こっちを向かないで欲しい。
反対側の耳も耳かきでちょこちょこと撫でて、それが終わると、ふっと息を吹きかけた。ひゃ、と言ってアルフォンスが声を出して笑う。
「ほらよ。終わり」
「もっと」
「綺麗だからもう終わり」
「もっとして」
困ったエドワードは、膝の上の弟の頭をよしよしと何度か撫でた。アルフォンスはゆっくりと片手を上げ、更に自分の頭がエドワードの腹部に密着する様に腰を抱いてくる。
「……どうしたんだ、アル」
「うん ? なにが?」
「なんかあったのか?」
「なにもないよ」
「じゃあなんで急にこんなこと言いだしたんだよ」
「別に深い意味はないよ。恋人同士がするようなことをしたいなー、と思っただけ」
そういえば朝、そんなようなことを言っていたのを思い出した。僕たちは恋人同士だよね、と念押しされたことを。
「要求は耳掃除で終わりか?」
「まだ。もうちょっとこうしていたい。あとね、脚の爪を切って欲しい。兄さんの爪も切らせて」
「それがおまえの『恋人がするようなこと』なのか?」
「まあ取りあえずは。とにかく恋人同士がやりそうなことをやりたい」
「なんで」
アルフォンスは膝の上からエドワードを見上げると、目を細めて微笑んだ。
「今日なんの日だか知ってる?」
「は? 今日?」
言われてエドワードは壁に掛けてあるカレンダーを見た。何かの行事がある日ではないし、祝日でもない。母の命日とか誕生日でもない。なんだろう? 自分が気付かない何かがあった日なんだろうか?
カレンダーを凝視してあれこれ考えて、ふと気付いたことがあった。
いや、でもそんなはずはない。恋人同士がやりそうな事云々とはまったく関係がない自信がある。この展開でこんなことを口にしたらアルに呆れられそうだ。
「なんの日だか分かった?」
「う……」
絶対に違う、と思いつつ他にはもう思いつかなかった。
「ネイチャーの……発売日」
兄さんらしい発想だと笑われるかと思ったが、アルフォンスの返事は意外なものだった。
「あたり」
「えっ、あたりなのか?」
アルフォンスが笑って膝から起き上がると、そう、ネイチャーの発売日なんだよ、と言った。
ネイチャーとは一年間に二度発行される、アメストリス最高峰の科学雑誌だ。国中の研究者から送られてくる優れた論文が、厳しい審査を経て掲載される。研究者なら誰でも一度は掲載されたいと思う憧れの雑誌で、ステータスともいえる。国家錬金術師の論文も掲載されることがあった。
「なんだ。載ったのか?」
「論文送ってないよ」
「じゃあなんだ」
「朝、そういえば今日はネイチャーの発売日だな、買ってこなきゃ、って思って――思い出したんだ」
「なにを」
「今日はね、兄さんを初めて抱いた日なんだよ」
「え……」
「兄さんが、初めて僕に体を開いてくれた日」
アルフォンスは顔を覗き込んでくると、唇にキスをしてきた。
「だから恋人らしい事をしたくなったんだ」
目を開いて言葉を失っているエドワードの頬に触れると、自分のほうに向かせてまたキスをしてくる。そのまま体を押されて、ソファに横たえらせられた。
アルフォンスは体を重ねてきて、キスを深くする。節ばった繊細な手がパジャマの布の上から肌を撫でた。
「あの頃はキスするのも大変だったなあ。……ちょっと触れるのも。でも今は、兄さんにキスしたいときにキスできる」
再び唇にキスをしながら、パジャマの上を彷徨っていた指がボタンを外し始めた。
「……あなたの体を抱くのも。時々拒まれることもあるけど」
笑いながら柔らかな唇が首筋や鎖骨を這い始める。前をはだけられ、急に気恥しくなったエドワードは顔をそらして赤くなった。
「あのとき――初めて抱いたとき、平静を装っていたけど実はびくびくしながら抱いたって言ったら、信じる?」
明確な意図をもって、本格的にアルフォンスの唇が肌を愛撫し始める。エドワードは少し慌てた。
「ちょ、っと、待て」
「ソファじゃいや?」
「あっ」
軽く胸の先端を噛まれて官能を感じ、体が震えた。
「……セックスもさ、恋人同士しかしないことだよね」
「やめ、ろ」
「これからはさ、毎回耳掃除をしてよ。膝枕して。僕もしてあげるから」
「オレは、いらね……」
「僕の耳掃除は必ずしてね。……甘えさせて」
そう言って、反対側をまた噛む。びくりと揺れた体を宥めるように、今度は舐めてきた。
「あなたが僕のものだって、もっといろんな形で知りたい。恋人の僕しかできないこととか、僕しか許されないこととか」
「……いまの、これが…そうなんじゃないのか」
「セックスもそうだけど、もっと」
体を少しだけ起こしたアルフォンスは、ソファに肘をついてエドワードの乱れた髪を梳く。
「まだだよ。まだまだ足りない。どれだけ片想いしたと思ってんの」
「……強欲だな」
「違う。貪欲なんだ」
アルフォンスの手が下へさがり、パジャマの上から下腹部を撫でた。体がすくんで思わず閉じようとした脚を脚で押さえられ、身動きできないままでいると少し冷たい手が下着の中へと入ってくる。
「……っ」
エドワードは力が入らなくなった両手で懸命に自分に覆いかぶさっている大きな体を押し返したが、弟の体は身動きしない。弄っている手とは反対側の手で抵抗しているエドワードの生身の手のほうを取り、指先に唇を寄せて舐めてくる。
「いやなの?」
嫌に決まってる。こんな――リビングのソファの上でなんて。今更だと言われようと、明るい光の中で隠すものがない場所で全てをアルフォンスに曝け出すのはどうしても恥ずかしい。羞恥心を拭い切れない。
「……僕の部屋に行く?」
唇を噛んで黙っていたが、やがて根負けして、ここで抱かれるよりはと、「うん」と返事をする。
その返事を待っていたかのようにアルフォンスは素早く起き上がると、エドワードの体を抱いて大股で自分の部屋へと行き、ベッドに横たえて全裸にした。
「い、いきなり脱がせんな」
「もっとムードを盛り上げて、ゆっくり下着を下げればよかった?」
上に乗り上げたアルフォンスは笑いながら自分も服を脱ぎ始める。
「で、耳掃除は? これからもしてくれる? 約束してよ、今」
「……子供かよ、いい年した大人の男が。甘えんな」
「兄さんだから甘えるんだ。というか、兄さんにしか甘えない」
アルフォンスも全裸になると、エドワードの肌に自分の肌を重ねてきた。皮膚が擦れてじんわりと相手の熱が伝わってくる。
「うん、って言いなよ。……それともここはわざと「うん」て言わないで、僕にいじめられたい?」
くすくす笑いながらエドワードの首筋に唇を寄せて軽く吸い始めた。
なんで耳掃除からこういう展開になってるんだろう。やっぱり走って逃げるんだった、と思いながら目を閉じる。
初めてアルフォンスと体をつなげたあの日は、ネイチャーの発売日だったっけ? 覚えてない。あの時はどうしよう、本当にいいんだろうかと混乱と羞恥でいっぱいで、経験したことのない感覚に耐え必死で声を殺そうとしていた。
あの時を思い出して、エドワードは喘がないよう唇を噛む。
アルフォンスにもたらされる熱い波に溺れながら、結局耳掃除の件を「うん」と言わせられた。
まだまだ足りない
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