玄関の鍵を開ける音が聞こえた。
ドアを閉めて再び鍵を掛け、リビングへと向かう足音。
ポストに入れられていた朝刊をリビングのテーブルへと置いて、キッチンへ行く。戸棚を開け、何かを取り出す音がする。コーヒーをセットしている音だとすぐ分かった。
セットし終え、再び歩く音が聞こえる。
弟が紡ぎ出す心地よい音に包まれて、目を閉じたまま情景を思い描いた。
リビングのカーテンを開ける音。
もう一度キッチンに戻って、棚を開ける。
カップを取り出し、テーブルに置く硬い音がふたつ。自分の分と、エドワードの分と。
冷蔵庫を開ける音がする。
何かを取り出して、閉める。
また開けて、何かをしまい、閉じる。
足音はキッチンを出て、リビングを横切り、まっすぐエドワードの部屋へと向かった。
そっとドアを開け、ベッドの中が空だと知った弟は、ドアを閉め、こちらの部屋へと向かってくる。
足音が近づいてくる。
静かにドアを開ける音。
ベッドに探していた姿を認めたためか、ふ、と笑う気配が微かに伝わってきた。
ゆっくり歩み寄ってきて、ベッドの傍らに立つと、エドワードの前髪をかき上げ、身を屈めて額にくちづけを落とす。
そっと離れていく弟の姿を見上げていたら、目を開けていたことに気付いたアルフォンスが笑った。
「なんだ、起きてたの? 珍しいね、一人でいる時に僕のベッドで寝てるなんて」
もう一度屈んで、今度は唇にキスをしてくる。
「んう……っ!」
享受しようとしていたエドワードは、慌てて弟の胸を突き飛ばした。
「なに?」
「おま…、『なに』じゃねーよ! アレの臭いが………っ」
ああ、と気付いて、アルフォンスは楽しそうに笑う。
「そういえば今、キッチンで牛乳飲んできたんだった。さすがに敏感だねえ」
悪びれるどころか愉快そうに言う弟の額を、エドワードは平手で叩いた。
「わざとやりやがったな!?」
「違う違う、不可抗力。ホント」
くすくす笑って、じゃあこっちね、とアルフォンスは再び屈んで、エドワードの頬にキスをした。
「ただいま、兄さん」
エドワードは両手を伸ばして、弟の首にぎゅ、と抱きついた。
「おかえり」
エドワードの抱擁を充分に受けてから体を起こそうとしたが、兄は抱きついたまま離れない。
「どうしたの?」
「どうもしない」
背中に手を差し入れて、エドワードの体ごと身を起こす。
抱きかかえたままベッドに腰掛けた弟に、更にきつく抱きついた。
「兄さん?」
「なんでもねえよ」
目を閉じて、アルフォンスの頬に自分の頬を摺り寄せた。
「………おまえは、あったかいな」
「兄さんも暖かいよ」
「あったかいって、いいよな」
「そうだね」
「やわらかい……」
「……うん」
エドワードに応えるように抱き返す弟を愛しく思いながら、そっと身を離した。
アルフォンスは背中に回していた手を解いて、エドワードの腕に触る。その手が不意に止まった。
「あれ? ………どうしたの、これ」
服の上から、何度も腕を撫でる。
「なにが?」
「なにが、じゃないよ」
右手の袖を肘まで捲り上げられる。
機械鎧のカバーが少しだけ歪んでいるのに、エドワードはこの時初めて気付いた。
「またなにか危ないことしたの?」
「違うって。たいしたことじゃない。………ちょっと、腕を挟んだだけだ」
「ちょっと……ねえ?」
ちょっと挟んだだけで機械鎧が歪むわけないだろ、との呟きは聞こえなかった振りをして、エドワードは両手を合わせる。このくらいなら自分で直せる。 というより、自分で直しておかねば、後でウインリィにバレて酷い目に遭う。
「待って。僕が直してあげる」
ぽん、と軽く手を合わせると、歪んだ腕をそっと撫でた。
青白い光とともに、腕は元通りの光沢を取り戻す。
「わかってると思うけど、命に関わるような危険な真似をしたら、お仕置きだからね」
「怖えな。なにされんの、オレ」
「そうだな。なにが一番堪える?」
「おまえに会えなくなるのが一番辛い」
そんなうれしい事を言われるとは思わなかった、と弟は笑った。
「でもそれをお仕置きにするのは無理だよ。僕も辛いから」
「じゃあなに? この前みてえにキス断ちにする?」
「それも辛いから無理」
「じゃあ触んの禁止にする」
「僕が我慢できないからだめ」
どれもダメじゃん、と呆れて言うと、他にもあるよ、とアルフォンスが言った。
「例えば?」
「なんでも僕の言うことを聞く、とか」
「言うこと聞かせてどうすんだよ」
「決まってるでしょ。あーんなことや、こーんなことをさせる」
「なんだそりゃ」
「そうじゃなかったら………この部屋に閉じ込める」
「……閉じ込めて、どうすんだ」
「………僕だけのものにする」
そっと近づいてきてキスしようとする弟の口元を、左手で押さえた。
「ダメだっつーの」
「………うっかり牛乳も飲めないな」
「キスしなきゃいいだけの話だろ」
「だって、したい」
「………あと10分くらいしたらな」
「兄さんからしてくれる?」
「………あと10分くらい、したら……」
「じゃあ、あと10分、このまま僕のベッドにいてね」
ふいにエドワードは黙り込んだ。
「兄さん?」
いや、と首を傾げて顔を覗き込んできたアルフォンスに笑みを向ける。
「おまえはあったかいヤツだよな、と思って」
「それはさっきも言ったよ」
「そうじゃなくて、もっと目に見えない 深い、精神的なところで」
エドワードは弟の手を取ると、暖かなその指に、そっとくちびるを寄せた。
「手術、終わったかな。 終わったよな、もう一日経ってんだし」
コーヒーを手にして壁に凭れ、独り言のようにもう一人の国家錬金術師が呟く。
エドワードの返事を待っている様子もなく、一人で喋って、そのまま沈黙して何かを考え込んでいる。
気持ちが沈んでしまうのはエドワードも同じだ。ただ通りすがっただけなのに、被害にあった女性のことばかりを考えてしまう。
今頃はもう、意識が戻っているだろうか? 自分の腕がないことに気付いているだろうか? 現実を、受け止められているだろうか?
なぜかひどく気になる。
「……なあ。オレ、ちょっと風邪気味だから病院行こうと思ってんだけど」
腕を組んで、そっぽを向いたままエドワードは言い、視線を戻して隣を見上げた。
「おまえ、どうする?」
ノエイはどこか安堵したような表情を見せる。
「行くだろ、当然。付き添ってやる」
俺、付き添い上手いぜ、と笑顔をみせたのに対して、エドワードはなんだそりゃと笑い返して、午後になるのを待ち、二人は病院へ向かった。
彼女の病室は3階の看護師詰所のすぐ側にあった。
大きな機材を使用するためなのか大きな個室で、入り口の側にソファがあり、その向こう側には白いカーテンが半分ほど引かれ、ベッドが見えた。
両親は二人の訪問を手放しで喜び、父親は握手を求めてきた。
「お二人には感謝してもしきれません。本当に助けてくださってありがとうございました」
ノエイと握手した後に、エドワードにも右手を差し出してくる。
エドワードは少し躊躇し、手袋をしたままその右手を握る。途端、父親が意外そうに目を見開いた。
「娘さんの具合はどうですか?」
ノエイが聞く。
「ええ、おかげさまで他に大きな怪我は……。脳波も正常ですし。本当に右腕だけで……」
「娘さんは……今は?」
「………もうすぐ寝ると思います」
その言葉に眉をしかめると、父親は力なく笑った。
「麻酔から覚めて……右腕がないことに気付いて、かなり取り乱したので。さっき鎮静剤を……」
「……そうですか…」
娘に会って行きますか? と母親がカーテンを引く。
彼女はベッドの上で意識が白濁としているのか、薄く目を開けたまま横たわって、動かなかった。その顔はあどけなく、救出した時には気付かなかったが、まだ少女だった。
体の右側の毛布には、普通ならあるべきはずの腕の膨らみがなかった。
痛々しい姿にノエイは俯き、エドワードは黙したまま、少女をじっと見ていた。
あの、と父親に声を掛けられ、エドワードは振り向く。
「失礼ですが……あなたの右手は……その、義手なのですか? 触った感じが……」
ああ、と頷いて、エドワードは手袋を取って右手を見せた。
「義手というより、機械鎧」
エドワードの右手を見た父親は、硬い鋼の手を突然握り、縋るような目で訴えた。
「ご迷惑なのは重々承知ですが、お願いがあります。 どうか、娘の力になってやってくれませんか」
「力って……オレは……」
「お願いします。相談に乗っていただけたら……いえ、娘の話を聞いてくださるだけでもいいんです。お願いします。お願いします」
娘は腕をなくした事実を受け入れられないんです、と父親は涙を流した。
「………で、どうする?」
病院からの帰り道、隣を歩いているノエイが聞いてくる。
「どうするもこうするもねえだろ。まだ腕をなくしたばっかりなんだし、周りが何を言っても結局は自分自身の問題なんだ、現実を受け入れるか受け入れないかなんて」
「それはまあ……そうなんだろうけどさ。力になろうとか思わねえの、経験者のエルリックくんは」
「ずいぶん肩入れすんだな」
「まあ、ちょっと思うトコロがあって……。そういうエルリックくんは、今回はなにを考えてるのか分からん」
「別に何も考えてねえけど」
「嘘だな」
「……オレにどうしろって言うんだよ」
エドワードは溜息をつく。
「ネガティブになるのもポジティブになるのも、全部自分の心根次第だろ。立ち直るヤツは一人でも立ち直るし、ダメなヤツはいくら言ってもダメなんだよ」
「冷たい」
「………別に、協力しないとは言ってねえけど」
「じゃあ明日も来ようぜ」
「……おまえ、なんでそんなに熱心なの」
「せっかく助けたんだ、なんとかしたいと思うだろ」
「そりゃそうだけどさ」
何かきっかけがあれば……きっと現実を受け入れられるだろうとは思う。
それは『時間』かもしれないし、誰かの言葉かもしれない。
彼女の父親はそのきっかけをエドワードに求めている。
自分はそんな、誰かを感化できるような人間ではないのに。
エドワードは、手袋と軍服の袖の間から僅かに覗き見える右腕の、鈍色の鋼を見た。
その、罪の証を。
硬質な熱 2
|