アルフォンスが帰ってきたのは、昼になってからだった。
家の中には誰もいない。しん、と静まっている。
脱いだ上着をソファに放って、簡単にシャワーを浴び、食事は摂らずに水だけ飲んで自分の部屋へ向かう。
ベッドに入ると、ふわりとエドワードの気配を感じた。
兄の匂いがする。
自分の部屋の天井を見上げ、ぼんやり兄のことを考えながら、アルフォンスはゆっくり目を閉じる。
昨夜、またこのベッドに潜り込んで寝たのだろうか?
確か昨日も兄の匂いがした。一昨日も。
ひょっとして、あの日からずっとここで寝ている?
どうしたんだろう。何かあったのかな……。
彼女の病室を訪ねるのは、今日で4回目だ。
腕を失った少女はまだ混乱しているようで、躁鬱を繰り返していた。毛布を被って大人しくしていたかと思うといきなり泣き出したり、急に火が点いたように暴れたり、自虐的に笑ったりする。
まだ安静にしていなければいけない状態なので、両親はどうしていいか分からず、オロオロするばかりだ。
そして腫れものに触るような周囲のその態度が、更に彼女を過敏にさせていた。
「人事だと思って口ではなんとでも言えるよね私の気持ちなんか分かりもしないくせに……! 偉そうなこと言わないでよ、慰めも説教ももうたくさん!」
「体に障るわ、あんまり興奮しないで……」
「こんな体、どうなったっていい!」
「おい。せっかく命があるのに、なんてこと言うんだよ。それにお母さんに八つ当たりしてもしょうがないだろ」
先ほどから毒を吐き続けるのを見かねたノエイがさすがに窘めると、少女はエドワードたちを呪うような目で睨んだ。
「あんたたちが余計なことしなければ良かったんだ。あのまま死ねば良かったのに。片腕なくしてこれからどうやって生きていけっていうの。あんたたち、錬金術師なんでしょ。右腕を錬成してよ。あたしの腕を作って……!」
「やめなさい。なんてことを言うの、命の恩人に……」
「母さんは黙ってて!」
癇癪を起こして、すぐそばにあった花瓶を左手で掴むと、母親に向かって投げつける。
顔面に向かって飛んできたそれを、母親は手をかざして避けた。腕に当たった花瓶は大きく割れ、床に落ちる。手を切ったりはしなかったようだが、母親は水で濡れた。
当てるつもりはなかったのか、投げた本人のほうが驚き、母親よりも傷ついた顔をする。
黙したまま自分を見ているエドワードの視線に気付いた少女は、その視線から隠れるようにまた頭から毛布を被る。毛布の山は微かにカタカタと震えていた。
見てて痛々しいよな、と帰り道を歩きながらノエイが呟いた。
「親を傷つけて、そんなことをする自分に傷ついてよ。なんとかならんかなぁ」
「……なるようにしかならねえだろ」
「散歩とか出来るようになったら、気も晴れないかな」
「そう簡単にはいかねえよ。リハビリは歩く練習から始めねえとなんないし。彼女の場合、車椅子で散歩じゃ、余計イライラするんじゃないか?」
「歩く練習? なんで。足はなんともないのに」
「腕1本の重さを考えてみろ。それが片方だけ突然無くなるんだ。 体を支えるバランスが狂うんだよ」
「すぐに機械鎧をつけるわけには……」
「いかねえな。炎症抑えて体力も付けねえと、手術にとても耐えられない」
「そっか。……そうだよなぁ。俺なんかだと簡単に機械鎧にしちまえばいいのにって思うけど、そうもいかないよな。女の子なんだから、抵抗もあるだろうし」
ノエイの言葉に、エドワードは眉を寄せる。
「女の子だから抵抗?」
「白くて柔らかい自分の腕が、ごっつい黒光の機械鎧になるんだ。そりゃ抵抗もあるだろう」
「……オレの幼馴染は、女の子だけど機械鎧大好きだぞ」
「嫌がる女の子も居るってことさ」
言って、ノエイは暫し遠く空を見上げ、黙る。
そして何を思ったのか、急に隣を歩くエドワードを振り返り、にっと笑った。
「実はさ、俺の彼女、機械鎧だったんだ」
「え?」
「右足の、太腿から下が」
「……事故で?」
「いや、病気で。切断したんだ」
エドワードは黙って隣を歩いている男を見上げる。
「周囲の人間は全然気にならなかったけど、彼女は凄い気にしててさ、俺に見られるのすら嫌がってたんだよな。スカートとか、絶対に履かなかったし。友達と遊んだり、泊まりに行ったりした時も、神経質なくらい、気を使ってよ。見てて可哀相だったんだ」
だから、あの少女に肩入れするんだろうか?
「……その彼女は、今は? 別れたのか?」
「うん。死別。病気再発してよ」
あんまりあっさり、何でもないことのように言うのが却ってカタルシスを得たからのように見えて、エドワードは言うべき言葉を失う。
「あ、いま、カワイソウ〜とか同情した? なあ」
思わず立ち止まりそうになったエドワードを見返して、ノエイはニヤニヤと笑った。
「慰めてやりたいとか思った?」
「思うか、バーカ」
軽口をきいて、エドワードは隣を歩く男の頭を叩いた。
昼に家に帰り着いたエドワードは、シャワーを浴びて着替えた後、まっすぐアルフォンスの部屋へ行って、ベッドに潜った。
毛布に包って体を丸め、しばらくぼんやりしてから右の手のひらを眺める。
指を閉じたり開いたりすると、カシカシと鋼が擦れる軽い音がした。
有機体なら、こんな音はしない。 本物の手なら。
自分が手足を失ったときのことを思い出す。
脚を失った瞬間は悪夢でしかなかった。こんな筈ではなかったのに、と。母親になる筈だった肉塊は悪夢の象徴でしかなかった。無為に命を与えて殺してしまったと、すまない気持ちが湧いたのは何年も経ってからだ。
命を持った肉塊のことを考える余裕など、あの時はなかった。
脚を持って行かれた喪失感より、激痛より、絶望よりも、それを遥かに凌駕したのは恐怖だった。いま思い出しただけでも震えが来る。自分の短慮で失い、自分のエゴであんな姿にしてしまった弟。魂を取り戻すとき、自分の命を失うことも厭わなかったせいか、利き手の右腕を付け根から失った事には心が動かなかった。手足を失ってしまった事実よりも息が止まるほど苦しかった現実と罰があったから 。
目を強く閉じて、アルフォンスの毛布をぎゅっと抱き締める。
いま思い出しても心を苛む。胸が詰まって心臓が止まりそうだ。大きな塊が喉に詰まって息ができない。
想像を絶するような罪悪を背負ったから、手足の喪失などは些細なことだった。アルフォンスの喪失に比べれば。
あの瞬間、アルフォンスの人生が狂ってしまった。狂わせてしまったのは自分だ。
あんな残酷なことをしたのに、なぜ弟はこんな兄を許すことが出来るのだろう? どうして自分を求めてくれるのだろう? なぜ笑って愛してると言える 。
そしてなぜ自分は、平気な顔をしてそんな弟の傍らに居られるのだろう。あんなにたくさんのものをアルフォンスから奪っておいて、あんなにたくさんの苦しみを科しておいて。
アルフォンスを好きだと言う資格が、自分にあるのだろうか?
絶望で目の前が真っ暗になっていたときに、ロイが指し示してくれた一筋の光。その光を手に入れるために必要な、失った手足の代わりになってくれる機械鎧は、希望だった。
そしてその希望を手に入れ安寧を手に入れたいま、希望だったはずの機械鎧は罪の証としてこの身に残った。機械鎧を呪わしく思ったことは一度もないし、生身の手足を取り戻したいとももう思わない。
けれど こんなふうにふと、左足と右腕の、そのあまりの重さに潰されそうになる。もう考えたくもないアルフォンスの喪失を思ってしまう。
自分にあの少女の気持ちを汲むことなど出来るはずがない。
彼女と自分とでは、こんなにも喪失の意味が違う。罪にまみれた自分とは 。
硬質な熱 3
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