病院の白い壁に簡単な梯子を練成して、3階の彼女の部屋へ窓から直接乗り込んだ。
非常識な時間だし非常識な訪問の仕方だとは思ったが、きっと眠れずにいるんだろうと思うと、じっとしていられなかった。
窓をノックして、声を掛け、泥棒みたいな真似してるけど見舞いに来たんだ急用もあるしと言葉を交わして、病室の中に入ることを許してもらった。
ベッドサイドにある照明が、ぼんやりと室内を照らしていた。暗めの明かりのせいか、ベッド上の彼女は顔色が悪く、思っていたより憔悴しているように見えた。
「……急な用事ってなんですか」
「いや、まあ急な用事っていうか、それは中に入れてもらう方便で、実はちょっと話をしたいくて」
ベッドの脇に置いてある椅子をひいて腰を下ろすと、袖を捲り上げて怪訝な顔をする彼女に自分の右腕を見せた。
「『私の気持ちなんか解らないくせに』ってのはナシな。オレ、ちょっとだけは解るんだ。 ほら右腕のない者同士。あ、左足もねえんだ」
今度は左足の裾をまくり、機械鎧をよく見えるようにと高く脚を上げてみせると、バランスを崩して後ろにひっくりかえってしまった。
「おわっ、いってぇ!」
後頭部をさすりながら床から起き上がると、その様子を唖然として見ていた少女が少しだけ笑った。
笑った顔を見るのは、出会ってから初めてだ。例外に漏れず、やっぱり笑顔は可愛いと思った。
「大丈夫ですか?」
「おう。あ、言っとくけど普段は運動神経いいんだぞ?」
「本当に? カラダ、固そうですけど」
「今は……その、ちょっとした事情で体を酷使したから、脚とか上げんの辛いんだよ」
自分で言って、ナニ言ってんだオレは、と赤くなりながら一緒にひっくり返ったイスを直し、咳払いしてもう一度座りなおした。
「……で、具合はどうだ?」
「日中、会ったじゃないですか」
「……う。そういえばそうだったか」
「まだ半日も経ってませんけど」
「えーと……病院のメシ、うまい?」
ぷ、と吹き出し、小さな笑みをさっきより深くする。
「いったい、何しに来たんですか」
「いや、だから話をしに」
「こんな夜中に病院の食事の話ですか」
「病院の食事のウマいマズいって、すんげぇ大事なことだぞ? マズいと這ってでも病院から抜け出したくなるからな」
「残念ながら」
「マズいのか?」
「美味しいです」
他愛のない話をしばらく続けて、2人でくすくすと笑い合った。
深夜のせいか、少女は今まで纏っていた他人を寄せ付けない尖った雰囲気を、少しずつ溶かし始める。本当はこんなふうに笑う子だったのかと知り、彼女を襲った不運な出来事に改めて胸が痛んだ。
なんとなく会話が途切れ、沈黙が落ちる。
エドワードは、静かに訊ねた。
「右手、痛くないか?」
少しだけ自嘲するような表情を浮かべ、それでも少女は穏やかに応える。
「無くなったはずの手が、痛いはずないでしょう?」
「うん、でも 痛いんじゃないかな、と思って」
「…………」
「無くしたはずの手が、不思議と痛かったり痒かったりするんだよな。ファントムペイン(幻肢痛)って言って……オレも無くしたばっかりのとき、よく幼馴染にあるはずない脚を擦ってもらったりしたんだ」
少女はぽつりと小さな声で呟く。
「………本当は……時々、痛い」
「痛いときは、ちゃんと痛いって言ったほうがいいよ。たとえファントムでも」
「だって、無いのに」
「気が引けるのか?」
「………なに言ってるの、って思われる」
「思わねえよ」
手を伸ばして、左手で、本来なら手のふくらみがあったはずの平らな毛布の上を、まるで痛みを和らげるように、優しく何度も擦った。
「あんたに笑っていて欲しいって思う人は、きっとこうやって右手を撫でてくれる」
「……あなたも?」
「オレも。一緒に見舞いに来る、もうひとりの国家錬金術師も。あんたを助けるために手を貸してくれた、何処の誰かも分からねえ街の人たちも」
少女が黙り込み、しばらくしてからふと、涙ぐむような気配がする。
エドワードは彼女の顔を見ないまま、あるはずのない手の痛みを取るために、繰り返し、撫でた。
「………機械鎧、そのうちつけんの? あんまりお薦めできない痛さだけどさ」
「…………」
「あんたの親父はつけさせたがってるみたいだな。まあ確かに便利だけど。………やっぱ女の子には抵抗あるかな?」
「……まだ、何も考えられない」
「そうか」
「自分の右側を見るの、怖い」
「……そうだな」
「だって……もうどうしようもないって、頭で解ってても……心が……」
「うん」
ぱたぱたと涙が落ちて、毛布を掴んでいる細い左手に落ちる。
エドワードは自分の左手の袖口を掴んで、少女の目元をごしごしとこすった。
そしたら、文句を言われた。
「……どうせなら、もっと優しく」
「わっ、悪い、オレ、こういうの慣れてなくて」
「女の子に泣かれるのに慣れてたら、問題ですよ」
泣きながら、少女は健気に笑顔を見せようとした。
「……あんたの両親は、あんたに何かしてやりたくて、でもナニをしていいか分かんなくてオロオロしてるみたいだけど、なにかして欲しいこと、ないのか?」
「まだ………なにも。……ただ、可哀相っていう目で見られるの…つらい……」
「そうか。……でもまあ、良識的な親だったら『可哀相』とか『代わってやりたい』とか思うのは避けられないから、その辺はもうしばらくの間、我慢してやれよ。もう少しすれば、きっと親も落ち着く」
「……そう……かな…」
「おう。 それと、物に八つ当たりするのはいいけど、親に八つ当たりするのはヤメロよな。親を傷付けた上に自分まで傷付いてどうする」
「……だって……自分でも、どうしたらいいか……」
「どうせ八つ当たりすんなら、当たってすっきりするヤツにしとけよ」
「……たとえば?」
「たとえば………うーん、どうせなら、大物? ベッドひっくり返す、とか」
涙に濡れた瞳のまま、少女は破顔した。
「どうやってひっくり返せっていうの? 両手があったって、出来ないよ」
「オレが手伝いに来てやる」
「わざわざひっくり返しに?」
「そう。で、すっきりしたら、2人で頭下げて謝ろうぜ」
「謝ること前提なんだ?」
「だって怒られること前提だし。でも気持ちいいこと間違いナシ」
「やったことあるんですか?」
「一回だけ」
目を見合わせて、2人は笑った。
遠くから、コツコツと廊下を歩く足音と、ドアを開ける音が聞こえてくる。
「やべ。巡回かな?」
「たぶん」
「じゃあオレ、見つからないうちに帰るな」
「……また来る? あの錬金術師さんと2人で」
「おう。今度は常識的に、昼間にな」
来たときと同様、泥棒みたいに窓枠に足をかけて、軽く手を上げエドワードは病室を出た。
地面に降り立つと、錬成した簡易梯子を壁に返還する。
踵を返して家に帰ろうとしたとき、背後から声を掛けられた。
「何をしてるの、貴方は」
文字通り飛び上がって驚き、振り返ると、深夜の街を静かに照らす街灯のあかりと夜の闇との間に、腕を組んで立っている弟がいた。
「なっ……ア、アル!? なんでこんなとこに居るんだよ……!」
「こっちのセリフだよ。何してるの、こんな夜中に女の子の部屋に窓から忍び込んで」
「人聞きの悪いこと言うなよ、ちょっと見舞いに来ただけだろ」
「こんな非常識な時間に訪ねるのを我慢できないくらい、大切な人になった?」
「は?」
「彼女のところに忍び込むの、僕に知られたくなかったんじゃない?」
「なに言ってんだ、オレはただ、今すぐ話をしたくなって……って、ひょっとして怒ってんの、オマエ?」
「怒ってないよ」
「でも不機嫌じゃねえかよ」
……ちょっと面白くないだけだよ、と兄に聞こえるか聞こえないかくらいで呟き、アルフォンスは左手を差し伸べた。
「帰るよ」
思わず反射的に、その手に機械鎧の右手を重ねる。アルフォンスは離れないようにと鋼の手をしっかり握りこんで指を絡めると、その手を引いて歩き出した。
「……アル」
「なに」
「なんでオレがここに居るって分かったんだ?」
「後をつけたから」
エドワードは呆れた声を出す。
「わざわざ?」
「訝かしんで当然だろ。寝てると思ってたのに、僕に気付かれないようにこっそりベッドを抜け出して、外出着に着替えてこんな時間に外に出て行くなんて」
「おまえ、起きてたのか」
「……眠れなかったの!」
「………なんで?」
「兄さんだって、寝てなかったくせに」
言ってむっつり口を噤み、機械鎧の手を強く引いた。
兄の手を引いて、弟はどんどん歩いていく。エドワードはその手を解こうとした。
アルフォンスが振り返る。
「なに」
「いや、……えーと……」
「僕と手を繋ぐの、いやなの?」
「そういうわけじゃ…なくて」
「人目が気になるの? 誰もいないよ」
「……車、通ってるじゃん」
言ったそばから、2人の脇を車が一台通り過ぎていく。
本当は人目が気になったわけではなかった。でもこの暖かな手を離そうとした理由を口に出せなくて、人目のせいにした。
「電気点いてる家も、まだ結構あるし。……憲兵が巡回してるかもしれねえし、軍の、巡回とかに遇うかも、しんねえし」
「それがなに」
「……おまえ、自分の立場をちっとは考えろよ。マスタング少将の右腕とか出世頭とか言われてんのに」
「普通に与えられた仕事をしてるだけで、右腕になったつもりも、出世頭になったつもりもない」
「アルはそうでも、周りはそう思わないだろ。幻滅されたりとか……えーと、外聞、悪くなったりとか」
「誰に幻滅されるっていうのさ」
「……女の子、たち、とか」
考えなしに言ってみたが、冷ややかな目で見下ろされ、黙らされてしまった。
「……兄さんが外聞を気にしてるんじゃないの?」
「は?」
「あの女の子のこと、好きになった?」
「……『あの女の子』? だれだ?」
不思議そうに眉を寄せる兄を見て、アルフォンスの尖った感情がふと緩む。
「まあ、そんなことはないと思うけど。彼女の力になりたいっていう兄さんの気持ちは理解できるけど、二度とこういうことはしないでよ」
「なに?」
「深夜に女の子の部屋に忍び込んでいったりしないで、ってこと」
そこで初めて、腕を失った少女のことを言っているのだと気づく。アルフォンスに想いを寄せている女の子の話をしていたので、何のことだか分からなかった。
「悪ぃ。きっと今も眠れないでいるんだろうなって思ったら、つい」
そして別のことにも気付く。アルフォンスはさっきからあの病室に居た人間のことを『女の子』と言っている。病室を出た直後にも『こんな夜中に女の子の部屋に窓から忍び込んで』と言っていた。
「アル。おまえ、知ってた?」
「なにを」
「あのコのこと。……火トカゲから聞いたのか?」
「兄さんの様子がおかしかったから、最近何か変わった事がなかったか、今日家に帰る前に少し調べただけだよ。 少佐と一緒に、事故に遭った女の子を助けたんでしょ? あの病室がその女の子の部屋なんだよね?」
「………うん」
「なんで兄さんの様子がおかしくなったのかは分からなかったけど、さっき抱いて気がついた。ベッドから抜け出して病院に向かうのを見て 」
そこで言葉を切る。
アルフォンスは機械鎧と手を繋いだまま、家へ向かって歩いていく。引っ張られるようにして、その少し後ろをエドワードが歩く。
「腕をなくしたことで、自分の過去を投影してる? それとも…………ひょっとして、本当にあの女の子に惹かれ始めたりしてて、彼女の不運が辛いなんてことは、ないよね?」
「なんだそれ、『惹かれ始めたり』って」
「さっき言ったでしょ。あの女の子の事、好きになったり、してないよね?」
「力になりたいだけだ。 せっかく助けたんだ、笑ってて欲しいだろ」
「………彼女には同情するよ。若い女の子なのに、急にこんな不運に遭って、可哀相だと思う。少しでも力になりたいっていう気持ちが兄さんに沸くのも、当然だと思うし。………でも、僕は面白くない」
「アル?」
「彼女のことを考えるたびに兄さんが苦しむのは耐えられない」
歩く速度を緩めて、立ち止まる。
手を繋いだまま、アルフォンスは兄に向き合って、怖い顔で見下ろした。
「僕は結構冷酷だよ。誰がどんなに苦しんでても、血を吐くような思いをしても………この世界が、破滅するようなことになったって 他人の事より兄さんの方が大切だ」
思わず左手を振り上げる。アルフォンスを殴ろうとしたその手は捉えられて、そのまま引き寄せられ、掠め取るようなキスをされた。
突き飛ばすようにして離れ、手を振り解こうと、もがく。
アルフォンスの両手がびくともしないのを知って、暴れるのをやめると、急速に躰の力を抜いて項垂れた。
「ちくしょ………なんで、敵わねえのかな……」
「兄さん」
「…たまには兄貴立てて………殴られやがれ……」
兄の生身の左手を掴んでいたアルフォンスの手が離される。
拘束を失って、左手が力なく垂れた。繋いだままの右の機械鎧の手を繋ぎなおして、アルフォンスは下を向いて顔を上げない兄の手を引く。
2、3歩よろけて、手を引かれるままエドワードは弟の後ろをついていく。
街は死んだように静まり返って、まるで生きている人間が2人だけのようだった。歩く音だけが街の外壁に反響する。忘れた頃に車が2人の脇を通った。
冷たい夜の風が2人の金色の髪を揺らす。頬を撫でる風を感じてエドワードは顔を上げた。
僅かに逡巡し、またアルフォンスと繋いだ機械鎧の右手を解こうとする。
「………さっきから、どうしてそんなに嫌がるの……」
振り返らず、歩みも止めず、アルフォンスが呟くように言う。絶対に離すものかというように、指を絡めた手を強くしながら。
「………嫌、なんじゃ…ない…」
「じゃあなんで」
「おまえ………そんなシャツ一枚で……着の身着のままで…体、冷えるだろ」
「それで?」
「手ぇつなぐなら、左手にしろよ」
「今日は右手とつなぎたいの」
「 機械鎧に、体温奪われる」
「まだ抱かれ足りないの?」
「だってホントのことだろ」
「…………凍えたって離すもんか」
なんとか振り解こうとエドワードはまたもがいたが、がっちりと強く握り締められ、離すことができない。
「あんまり暴れると、その辺の茂みに連れ込むよ」
「……アル」
「なんだよ」
「おまえが好きだよ」
突然のことに、さすがに驚いて脚を止めアルフォンスが振り返る。
エドワードは笑おうとしたが失敗して、顔を歪める。弟を直視できなくて、表情を見られたくなくて、また俯いた。
「兄さ 」
「好きだよ。好き。すげえ、好き」
「……………」
「こんなに好きだと、やっぱ辛い。おまえのこと好きであればあるほど 機械鎧が、重くなる」
静かな声が、頭上から落ちてくる。
「………僕と居るのが、苦しい?」
否定しようと口を開いたが、すぐに言葉は出てこない。そのことに、またエドワードは傷ついた。
泥の沼に嵌まって、脚を取られているようだ。もがいてももがいても終わりの岸は見えない。過去も時間も取り戻せない。過去があって、今の自分たちが居る。もう切り離せない一部なのだ。
「僕と………別れたい?」
答えようと思ったが、喉の奥が焼けて、言葉は出ない。
それだけは嫌だと、繋がれた手を、強く握りかえして答えた。
「………兄さんは普段は強い人なのに、僕のこととなると、どうしてそんなに脆くなるのかな……。そうやって、なんでも背負おうとするから、足元が覚束無くなるんだよ」
アルフォンスもまた、繋がれた手を強く握りかえした。
「兄さんの機械鎧は、僕にとっても消えない罪の証なんだよ。特に兄さんの右手は………僕が奪ったようなものだから」
「違う、オレが」
「兄さんが僕に罪悪感を抱くように、僕だって兄さんに罪悪感を抱いてる。機械鎧のせいで、夏に暑さでふらふらになったり、冬に寒さで震えてるのを見ると、胸が痛むんだ」
「……オレのは……自業自得だ………」
「僕たちは共犯者なんだよ、兄さん。 貴方一人が背負わなくていいんだ、一人で苦しまなくていいんだよ。足元が覚束なくなるくらい苦しくなっても、2人でなら立っていられるだろ」
「……アル」
「一緒に居ればお互いを支えあえる。………だから2人で居るんだよ」
エドワードは左手で自分の目元を覆った。
アルフォンスは、そっと機械鎧の手を引く。
「……帰ろ、兄さん」
促され、静かに歩き出す。静謐な街の中に、2人分の足音が響いた。エドワードの足音だけが、左右少しだけ違って響いた。
「家に帰ったら、また僕が暖めてあげる」
朝まで抱いてあげるから、と囁かれ、胸の奥が熱く疼いた。
自分にも、弟を暖めることができるだろうか?
アルフォンスの手の温度を奪い続ける機械鎧の指に、離れたくないと祈りながら、エドワードは力をこめた。
硬質な熱 6
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