「……大尉は、時々少将に呪詛を吐きたくなりませんか」
デスクの上に堆く積まれた書類を前にしながら、アルフォンスがそれこそ呪詛を吐くように低い声でぼそりと漏らした。
捺印も最終チェックも終わった書類を分け、項目ごとにファイルしていたホークアイ大尉は、手を休めることなく動かしながら、くすりと笑った。
「呪詛を吐きたいの、アルフォンス君は?」
「吐きたいですね。一週間も家に帰れないんじゃ」
やっぱりチェックする手を休めず、若干眉間に縦ジワを作ってアルフォンスが言う。
別にマスタング少将が悪いわけではない。
この忙しい時に南方へ視察に出掛けたのは仕事だからだし、式典に出席するのだって仕事だからだ。しかし少将が別の仕事をしているからといって、デスクワークの仕事の量が減るわけでもない。
しわ寄せはすべて直属の部下であるアルフォンスへと来て、自分の仕事を片付けながら少将の仕事も片付けるという、恐ろしいほどハードなものとなっていた。
いくらなんでも一人で処理しきれないのは誰の目にも明らかだったので、少将に着いて行ったホークアイ大尉が四日前に先に中央へ帰ってきて、それからは二人で仕事をこなしていた。
そして一週間後の今日、ようやく終わりが見えてきたのだ。
「あの人の仕事っぷりは大したものだと思いますし、少しでも早く野望に近づけるよう協力したいとも思ってますけど、せめて二日に一回は家に帰る権利を認めて欲しいな」
「そうね。今回はさすがにきつかったわね」
「ハヤテ号はどうしてるんです?」
「知り合いのところに預かってもらっているの。今日、この仕事が終わったら引き取りに行く予定」
「少将が帰ってくるの、明日でしたよね?」
「そうよ。だから明日からは通常業務に戻れるわね」
そうしたら交代で休みを取りましょう、と大尉は微笑んだ。
「エドワード君の休みに合わせて取ってもいいわよ」
「……別に兄に会いたいから帰りたいわけじゃないですよ?」
「あら、そう聞こえた?」
「まあどうせなら同じ日に休みたいですけど」
「じゃあ今日家に帰ったら休日聞いてきてね。それでお互い休む日を決めましょう」
「いいんですか?」
「もちろんいいわよ」
「じゃあそれを励みに、どんなことがあっても今日中に終わらせます」
手を動かしながら、ふと考える。
今日、兄は日勤だろうか? いくら頑張って仕事を終わらせても、夜勤か準夜だったら家に帰っても兄は居ない。
そうなったらまた兄さんに会うのはお預けか、と我知らず重い溜息が出てくる。
もう一週間、会ってない。
いつもなら家で会えなくても軍で会うことができるのだが、ずっとマスタング少将執務分室で缶詰状態だったから、本当に顔すら見ていなかった。
一緒に住んでいるのだから、無理に会おうとしなくても今日明日中には会える。兄に会うことよりも、躰は休息を求めている。
しかし仕事が過酷だったからこそ、心は兄を求めた。
この腕に抱いて、さらさらの髪に指を絡めて。すり寄せるようにして柔らかな頬に頬で触れて、仄かに香る兄の匂いを、胸に満たす………。
いつの間にか集中力が切れて、手が止まる。
アルフォンスは突然ガタン、と椅子から立ち上がった。
「すいません、顔洗ってきます」
早く会いたいのなら、なおさら兄のことを考えないようにしないと、仕事が終わらない。
大きな溜息をついて、アルフォンスは廊下に出た。
服を着替え終えてロッカーに鍵を掛けたとき、ふと重要書類を仕舞った書類棚の鍵を掛けただろうかと気になった。
もちろん掛けたはずだが、毎日繰り返される動作だからあまり強く意識してない。
疲れてぼんやりしてたから、もしかしたら掛けたつもりで掛け忘れたかも。
ロッカールームを出ると、アルフォンスはもう一度マスタング少将執務分室に戻る。書類棚を開けようとすると、ガチンと音がして引き出しは動かない。
ちゃんと鍵掛けてたか、と呟いて、ほっと息を吐いた。
今何時だろう、と腕時計を見ると、針は7時半を回っていた。
兄は家に居るだろうか? それとも軍に居るだろうか?
「詰所にいるかな」
取りあえず兄がまだ残っているかどうか見に行こうとしたら、突然地を這うような、どん、という大きな音がした。
何だろうと訝って、ガラス窓に近づき外を見る。
夜空がぱっと明るくなったような気がしたが、ここからは何も見えない。光に遅れて、またどん、という音がした。
こんな場所でこんな時間に演習? などと働かない頭で考え、窓辺を離れて分室を出ようとする。
ドアノブに手を掛けて部屋を出ようとした瞬間、人にぶつかった。
「うわっ!」
「あ、すいませ………兄さん?」
「…よ、よう、アル」
何故かグラスを持っている左手の甲で、エドワードは鼻を押さえた。
「どうして………ごめん。鼻ぶつけた?」
「ダイジョ…ブ……」
服装を見ると兄は私服だった。
「今日、日勤だったの? まだ残ってたんだ?」
「いや、一回家に帰ってきた。おまえを迎えに来たの」
言って、両手を掲げて見せた。
右手にはワインボトル、さっき鼻を押さえた左手には、細長いペアグラスが握られていた。
「仕事なんて放っぽって、花火見物しよーぜ」
薄暗い廊下を、兄を先頭にして二人で歩く。いつもはもっと明るい筈なのだが、今日は花火のために電気を一部消しているようだ。
「今更だけどさ、アルも私服ってことは、仕事終わったってことか?」
「うん。ようやく」
「そっか。すれ違いになんなくてよかった」
外からは、どんどんと重い音が連続して聞こえてくる。窓枠の桟が明るく照らされ、廊下にも光を落とした。
「……今日、何かあったっけ?」
前を歩いていた兄が、呆れたようにこちらを振り返る。
「おまえ、全っ然気付いてなかったのか? 今日はアメストリスの誕生祭だろ。街じゃ昨日から前夜祭始まってたのに。パレードの音とか聞こえてこなかったのかよ?」
「……気付きませんでした」
南棟最上階の、電気も点いてないような人気の無い物置を通り、鍵を勝手に開けてベランダへ出る。
雲ひとつ無い夜空に、眩しいほどの光を放った火の華が咲くのが、視界を遮る物も無く見えた。
「へえ、いい場所だね」
「だろ? 司令部でも数少ない穴場なんだ」
二人並んで壁に凭れるようにして座り、夜の空を眺める。
エドワードは手にしていた二つのグラスをアルフォンスに「持ってて」と渡すと、ワインのコルクを開け、中身をグラスに注いだ。
ほんのりアイボリー色の透明なワインは、底から細やかな気泡を立ち上げ、グラスに貼りつき、さらにそこから上へとのぼって、小さく弾けた。
「スパークリングワイン。お祭りだからな」
「冷たいね」
「おー。グラス買いに行ってる間、食堂のおばさんに冷やしてもらってたんだ。 んじゃハイ、乾杯」
一方的にグラスを合わせて、一気に半分ほど飲み干す。
兄につられるようにグラスに口をつけ、喉を潤すと、顔を覗き込んできたエドワードが、「ウマい?」と尋ねてきた。「うん」と答えると、へへと笑う。
「奮発したんだ、このワイン。飲みやすいだろ」
「うん。でも奮発って、どうして」
「今日が特別な日だから」
「特別? 誕生祭のほかに? なにか記念日だったっけ?」
「ちげーよ」
言って、機械鎧の右手で夜空を指差す。ひときわ大きな花火が連続して暗い空に光の華を咲かせ、何処からか大きな歓声が上がる。
「花火がなに?」
「花火の日だから」
「それだけ?」
「そう、それだけ」
グラスを置くと、両手で足を抱えるようにして座り直し、空を見ながら、おー、キレーだなぁ、と無邪気に笑う。
真っ暗な空間に、華やかに色を添える光に少し遅れて、体の奥にまで響くような力強い音が繰り返される。続いて広がった華の末端が赤から緑へと色を変え、四方へと閃光を走らせ、パラパラという音がした時にはその姿を消す。
兄の金の髪と、面を見る。
眩しいほどの光が、色を変え、薄暗闇の中から鮮やかに兄の姿を照らす。
そういえば一週間ぶりなんだ、と今更ながら思った。
仕事から解放されて兄に会ったら、何をしたいと思ったっけ?
腕に抱いて、髪に指を絡めて、その頬に触れて………。
「なに見てんだよ。あっち見ろ、あっち」
視線に気付いたらしいエドワードが、照れ隠しのためかちょっと怒ったような顔をして左手でアルフォンスの顎をつかみ、ぐい、と正面に向き直させる。
しばらく無言で花火を見ていたが、やっぱりアルフォンスは隣が気になって、兄の方を見てしまう。
じっと見つめていたら、エドワードは段々顔を赤らめてくる。
居たたまれなくなったのか、花火から目を逸らし始め、俯いて両手で抱えてた脚の間に顔を隠してしまった。
そんな様子もかわいいな、と更に目が離せなくなって見つめていると、だーっ、そんな真顔でこっち見んな! と視線に耐えられなくなった兄はアルフォンスの視界を塞ぐようにして、また顔をぐい、と正面に向けさせる。
「花火見ろバカっ。こっち見んの禁止!」
「……別に何見てもいいだろ」
「オレなんていつでも見れんだろが。花火は年に一回だぞ。花火見ろっての!」
「……僕は兄さんが見たい」
「オレは見られたくねえの。なんでそんなにじっと見るんだよ、恥かしいだろがっ。今度こっち見たら、デート中止だからな」
いま、ただならぬ言葉を聞いた。
「……これって、デートだったんだ?」
「ちっ違う、失言だ。聞き流せっ」
胸が沸き立つように踊りそうになったが、わー、こっち見んな! と今度は両手で兄に見るのを阻められ、首が痛くなった。
「兄さんの顔が見たいのに」
「見る必要ナシ! いーから黙って花火見てろっ。今度こっち見たら、即刻帰るからな」
「けち」
不貞腐れながら言って、でもなんだか胸は騒ぐ。つい口元が緩むのを、どうしても止めなれなくなる。
もっともっと見ていたかったが、本気で照れる兄が少しかわいそうでもあったので、ここは大人しく花火を見ることにした。
立てた片膝に両手と顎を乗せて、色鮮やかにその表情を変える夜空を見上げる。小さな花火が間断なく打ち上げられて空を焦がすと、大きな歓声の中に子供の声も混じって聞こえてきた。
家族でこの花火を見てるのかなぁ、と何となくその光景を思い浮かべる。
自分たちが小さい頃に住んでいたリゼンブールは田舎町だったから、こんな花火が打ち上げられるようなお祭りはなかった。
もしあったら、親子四人で花火を見に出かけたりしただろうか? 迷子にならないように、皆で手をつないで歩いたりしたのかな?
ぼんやり観ながら、詮無いことを考える。
ふと、視線を感じて、つい隣を見る。エドワードがこちらを見ていて、アルフォンスと目が会うと、慌てて逸らした。
「なに、兄さん。僕には兄さんを見るのを禁止しといて、自分は花火見ないで僕を見てるの、ずるくない?」
「うるせー。兄ちゃんはいいの」
「こんな時ばっかり兄の特権ですか」
「こんな時くらい兄の特権使わせろ」
「僕の顔見ても、つまんないよ」
「つまんなくねえよ。 一週間ぶりなんだぞ」
立てた膝に乗せていた顔を上げて、隣の兄を見た。兄は、脚を抱えていた両腕の上に頭を寝せて、こっちを見る。開き直ったのか、今度は遠慮なくアルフォンスの顔を見ていた。
「……そうだよ、一週間ぶりなんだ。僕だって兄さんを、見たい」
お互いの目の中に写る花火の色を見て、くるくる変わる光に照らされる髪や顔や躰をみる。
言葉が無くなって、周囲の喧騒だけが耳に届く。無言のまま、ただ静かにお互いを見た。
しばらくそうしていると、兄がぽつりと言葉を発した。
「……なあアル。おまえ、初めて花火を見たときの話、知ってるか?」
「いくつのとき?」
「さあ? まだ一つか二つか……。学校に行くようになったときに、母さんが話してくれたんだけど」
「覚えてないな」
「隣町で、秋祭りがあって……それを家族四人で観に行ったんだと」
「そんなこと、あったんだ……」
さっきの子供の声を聞いて、兄も思い浮かべたのだろうか?
「喜ぶかと思って連れて行ったのに、アルは花火のでかい音にびっくりして泣き出して、オレはビビって屋台の幕の下に隠れて出てこなかったんだとさ」
「ふふ。連れて行った甲斐がないね」
「まったくだな」
「音が怖かったのかな。光が弾けるのが怖かったのかな」
「両方じゃねえか?」
足元に置いていたワインの瓶を手に持って、兄が注ぎ口をこちらに向ける。それに応えて下に置いていたグラスを手にし、半分ほどに減った中身にワインを注いで貰う。エドワードは自分のグラスも手にすると、自ずから注ぎ足して瓶を置き、舐めるようにグラスに口をつけた。
兄が花火の方を見たので、またアルフォンスも眩しい花が咲く天空へと目をやる。
花火の音と人々の歓声だけが耳に聞こえた。
長い間の沈黙のあと、兄がぽつりと口を開く。
「アル。……おまえさ」
「ん?」
「おまえ………あいつの、少将の腹心だから、重要な仕事とかを任せられて、大変なのは分かるけどさ」
「うん」
「一生懸命与えられた仕事をこなすのも分かるけど、さ……」
「うん」
「こんなこと思うの、オレの……その、勝手なワガママだっていうのも、分かってるけどさ」
「……なに」
「おまえ……こういう、恋人とか、家族とか……なんていうか、その、皆が……大切な人と一緒に過ごすような、特別な日とかにはさ、オレのことを独りにしとくなよな。 世界から爪弾きにされたような……大切な人なんかいなくて、大切に思ってくれる人もいなくて、なんだか世界中でオレ独りっきり、みたいな気分になるだろ」
膝を抱えて丸くなっている兄を、静かに見る。
「もっともさ、そーゆー時は今日みたいに、オレからアルんトコに押し掛けるけどな」
へへ、と空の花の光をその目に映しながら笑う。
「……独りきりなんかじゃないって、分かってるよね?」
兄は破顔する。
「分かってるよ、もちろん。だから押し掛けたんだ。たとえ仕事中でも、アルを掻っ攫うつもりだったしな」
「僕が傍に居れば、そんな思いなんかしない?」
「しないに決まってんだろ。おまえだってしないよな?」
アルフォンスも顔に笑みを浮かべる。
「さあ、どうかなぁ」
「なんだとてめぇ」
言いつつ、二人で笑いあう。
手にしていたグラスを置き、どちらからともなく顔を近づけて、触れるだけのキスをした。
ゆっくり離れて額を合わせ、また笑いあって、今度は角度を変えて触れるだけのキスをする。
ほんの少しだけ離れて、唇を微かに触れ合わせたまま笑みを浮かべると、その気配がエドワードに伝わったらしい。
「……嬉しそうだな」
「嬉しいよ。兄さんは?」
また軽いキスをして、唇が触れ合う微かな距離をあけると、兄は唇を動かす。
「嬉しいな。……なんだろ?」
今度は兄から軽いキスをしてきて、やっぱり唇が触れ合ったままの距離をあけて、喋る。
「なんか、自分でもよくわかんねえ。 けど、すっげー、嬉しい」
「嬉しい?」
「嬉しい」
エドワードの言葉が、直接唇に響いてくる。
口が動く感触や吐息や笑う気配、すべてを唇で感じて、嬉しさが募る。一週間ぶりに感じる『兄』を。
キスを与え合い、受け合う。
吐息だけで笑いながら、何度も何度も触れるだけのキスを繰り返した。
「……ワインの味がする」
「……うん。ちょっと甘いね」
「もっと辛口の方が良かったかな?」
「ちょうどいいよ。それに奮発したんでしょ? 『デート』のために」
「なっ……てめぇ……ゆーな、そういうこと」
「あはははは」
兄は抗議の声を上げたが、それでもお互い、キスを繰り返した。
胸が何かに満たされていく。
酔いそうだ、と思った。
唇からほんのり香る甘いワインの匂いが、二人をそっと包んだ。
其処に居るということ
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